(by 葛西祝

さまざまなジャンルから、人生や日常の欠落についてを書く連載「LIFEー」6回目は、とある破滅的な経歴を送った作家の話をしよう。

あらゆる表現に関して、残された作品以上に生み出した作家のパーソナリティがフィーチャーされることは少なくない。その作家が苛烈な人生を送ったならばなおさらだ。

たとえばポピュラー音楽の領域ではたくさんのケースがある。60年代はそうだ。ドアーズのジム・モリソンや、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンなどなど……どれも音楽とともに苛烈な人生も取り沙汰された。

ところが同じ60年代、アニメーションで苛烈な作品と人生を歩んだ作家がいる。それもアートアニメーションの最高機関から現れた。それがライアン・ラーキンだ。

ライアン・ラーキンの人生と作品は、まるでロックミュージシャンみたいに鮮烈で、破滅的である。若くしてアカデミー賞の候補に選ばれ、活躍を期待されたのち、物乞いへと転落したからだ。彼の経歴からはいくつかのアンビバレンスが見受けられ、多くの示唆を残している。

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「私は元祖パンクロッカーだったんだよ」

ライアン・ラーキンはそう自分をたとえるように、若いころから反抗的な性格だったという。1943年にカナダのモントリオールで生まれ、人々からの注目を浴びることを好んでいた。そんな彼の性格は、以降の経歴やアニメーションにも反映されている。

子供のころから絵を描くのが得意だったが、スムーズにアニメーション作家になったわけではなかった。荒々しい10代を過ごしていた。しかし一緒に遊んでいた兄の死が彼を大きく変える。家族の関係が悪くなり、高校を中退して家出。しかしヒッチハイクに失敗し、警察に収監されて終わる。

「家族も家もあるのに何が不満なんだ?」と家族に言われる。

「高校が嫌なんだ。モントリオールの美術学校へと戻りたかったんだよ」そうライアンは答えた。家族との相談の結果、美術学校へと進学。そこで培った技術から、NFB(※)へと就職を決める。

(※NFB/National Film Board of Canada:カナダ国立映画委員会。カナダ政府の機関であり、アニメーションをはじめ、ドキュメンタリー映画などを取り扱う。)

NFBとはアニメーションの本質を突き詰める、世界的にもトップクラスでアカデミックな機関といっていい。そこへライアンのような “パンクロッカー ”が入ったことは、良い結果と悪い結果のふたつをもたらした。

路上のアニメーション

代表作の『Walking』。アカデミー賞にノミネートされる。

良い結果は、ライアンの資質が当時のアニメーションに生かされたことだ。

ライアンの作品にはいつも路上の空気が混ざりこんでいる。短編アニメーションは簡単に言えば、アニメーションそのものの表現や技術を研ぎ澄ませていくものだ。それがTVや映画で放映されるような、ストーリーとキャラクターの比重が大きい商業の長編アニメとは違う。

しかしライアンのアニメーションは、技術研鑽やアカデミックな表現のみでくくれない。代表作の『Walking』(1968)『ストリートミュージック』(1972)など、彼の作品は路上を色濃く映しているからだ。

アニメーションはスタジオワークの最たるものだ。ほとんどの場合はアニメそのものの表現を研ぐ目的で、外側と関わることはなかなか難しい。もちろんそれがないわけじゃない。大きな社会的なテーマを取り扱う、アニメーションドキュメンタリーというジャンルもある。だけどライアンのアニメーションはそうしたアプローチとは違う。

ライアンの作品では、路上で起きている物事、雑踏、音楽をアニメーションで描くことで、いつも日常で見かける街の空気が入っている。カフェやバーからインスピレーションを得たとも語られている。彼の作品がほとんどドローイングのように、街の現場でスケッチブックに描く手触りがそのままアニメートされていることも大きいだろう。

「めちゃくちゃになってしまってもいいから自分自身の声を見いだすべきだ」

ライアンはNFBで学生を指導するときにそう語ったそうだ。だが彼自身がそうしてアニメーションを作っていたと言えるだろう。NFBの環境と、ライアンの奔放さが良い効果を生み出していた。

『ストリートミュージック』。オーストラリアの映画祭で数ある長編を抑え、グランプリに。

『Walking』では路上のスケッチから、タイトルのようにあらゆる人物の“歩く”動作をアニメートしてみせるし、『ストリートミュージック』では路上で音楽を演奏する人々の実写から、ドローイングが変化を続ける抽象的なアニメーションを展開してゆく。

ライアンの鮮烈なアニメーションは高い評価を受ける。『Walking』がアカデミー賞にノミネートされ、受賞こそ逃すものの、『ストリートミュージック』ではオーストラリアの映画祭でグランプリを受賞する。

「この十分間の映画が、複雑な長編映画と対等にやり合えたってことだからね」

そうライアン自身も良く思っていた。この2つのアニメーションは短編アニメーション史上でも重要な位置を占めている。

盛衰

だがこの後、悪い結果が訪れる。ライアンのキャリアが崩れ去るのだ。

“アニメーション界のフランク・ザッパ、もしくはジョージ・ハリスン”

 “ライアンの人生自体も、作品同様に芸術的である”

モントリオールの新聞記者はライアンをそう評価した。映画祭での高い評価から、メディアも注目し始めていたのだ。

まさしくロックミュージシャンを評価するような書き方だが、評価にはライアンの所属するNFBへの批判も含まれていた。NFBはアカデミックな場所ゆえに、保守的な方向でもあった。なのでライアンがそうした流れを変える可能性だと目されたのである。時は60年代、大きな変化が望まれた時代だ。スターを持ちあげるだけではなく、アニメーション文化の革新も期待されていた。

しかしライアンの荒さや自由さは、記者が期待したようなNFBの改革には至らなかった。逆に名声によって彼のキャリアが混乱する事態に直面した。

「自分のエゴをどう扱うか、それが問題だった。私はしばらくのあいだ、自制心を失ってしまっていた」ライアンはさらなる名声への欲と、周囲からのプレッシャーによって混迷してゆく。

もっとも大きな問題は、彼自身にアイディアが何も残っていなかったことだった。「自分自身の声を見いだすべき」というスタンスゆえか、自らに何もなければ作れない。職人のように作品を作れるタイプではなかった。加えて、NFBからの新しいプロジェクトと製作環境もライアンに苦痛を与えたという。

「そろそろNFBを去るべきときなんだよ」ライアンは周囲との軋轢によって、そう語ったそうだ。

パンクロッカーがアカデミックな最高機関と共同制作するような、本来相反するもの同士がアニメーションを作る時期は終わりにきていた。「40代にも近づくというのに、まだパンクとして生きてきた」とも評され、「少なくとも、社会が要求する成熟のモデルに適応できなかった」とも言われた。

さらにライアンは薬物にも手を出し、おかしくなることを止められなかった。手を出した理由は “創造性を取り戻すため ”とか “周りの友人が手を出していたから”とか、そんなものだった。この状態が続けば、どうなるかわかるだろう。

その後、いくつかのトラブルからライアンはNFBから離れる。1978年の事だった。NFBから離脱後、映画などのプロジェクトに関わるが上手く行かず、アニメーションの一線から退いていく。消息さえわからなくなった。

物乞い

それからおよそ20年。2000年代ではライアン・ラーキンは伝説の人物としてアニメーション関係者に知られていた。オタワの国際アニメーション映画祭のディレクターを務める、アニメ評論家のクリス・ロビンソンもそのひとりだった。

そんなロビンソンがある時、スタッフから「路上で、かつてアニメーション作家だったという男が物乞いをしている」という噂を聞く。その時点のロビンソンは、ライアンのことを知ってはいたが、代表作にもあまり思い入れがないようだった。

だが噂を聞いてから「明らかに才能のあるアニメーション作家がそんな転落をしてしまうなんて、ありえないことのように思えたのだ」と興味を抱く。同時に「彼の挫折の裏には面白い物語があるんじゃないか」ともロビンソンは考えた。おそらく映画祭ディレクターとして、イベントに生かせる可能性も見いだしていたのだろう。ロビンソンは噂の発端となった場所に向かう。

「小銭をもらえませんか?」

ロビンソンが話しかけるより前に男が語りかける。それがまさしくライアンだった。路上の気配をアニメーションに込めた作家が、本当に路上で物乞いをしていたのである。

ロビンソンはライアンとこれまでどうしていたのか、について話しながら、だんだんと彼をアニメーションへと戻す手助けをしたい、と考えるようになった。まず最初に、ロビンソンはライアンをアニメーションのフェスティバルへと呼び寄せる。すぐ様に古参のアニメーション作家たちがライアンが来ていることにざわめく。

『Ryan』ラーキン復帰を描いた3Ⅾのドキュメンタリーアニメ。写実と超現実が混ざりあう。

伝説上の作家となっていたライアンの、唐突な復帰。ロビンソンが「面白い物語」と考えたことは、当の作家たちもそうだった。3Dのアニメーション作家、クリス・ランドルフが興味を抱き、ライアン復帰までのドキュメンタリーアニメーション『Ryan』を制作する。

物語の強さは確かだった。今のフォトグラメトリ(※2)を思わせる写実的な要素と、精神分裂的な表現が混ざり合った『Ryan』によって、ランドルフはオスカーを受賞したからだ。

(※2フォトグラメトリ:膨大な写真から3DCG モデルを生成する技術。)

伝説上だったアニメーション作家の衝撃的な復帰は成功を修めたと言っていいだろう。しかし、復帰を支援した当のロビンソンは、ライアンの周囲が持ちあげる状況が広がるごとに、憤りのような感情を抱く。

「俺たち人間は、他人が堕落するのを待ってから、そいつに興味を持ち始めるものらしい。どうしてだろうか」

復帰と逝去

ライアンの復帰は数多くの人間を引き寄せた。しかし、伝説の実体は成熟に失敗した人間に過ぎなかった。彼に関わった人々からうんざりさせられたという声がロビンソンのもとに届き始める。ひどい行動、人種差別する言葉の数々……。ロビンソン自身は。ライアンの復活をどうしようもない人間をどうしようもないままに見せることを考えていたそうだが、しかしそれが魅力的になってしまうアンビバレンスを抱えていた。

「私は制作のためのリサーチを続けているのだよ」ライアンは長い路上生活をそんなふうに冗談で返したそうだ。路上とは切っても切れない作家が、本当の路上で過ごした日々を描くために、再びアニメーション制作に戻ることになる。しかし進みは悪く、2年ほどストーリーボードを考え直しているという話ばかりが届く。

だが制作が止まる決定的な出来事が起こる。ライアンが癌になり、残された命もいくばくもなくなったのだ。

ライアンは2007年に亡くなる。最後のアニメーションとなった『スペアチェンジ 小銭を』は未完である。序盤にだけ、ライアンが描いたわずかなシーンが見え、残りは彼の構想を元に他の作家が手掛けたものだ。正直にいってアニメーションとしての完成度はライアンのパートも含めてとても悪い。しかし、ライアンの人生の物語そのものの強さによって、最後まで見られる。

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ライアン・ラーキンのキャリアをこうして振り返ると、少なくとも自分にとっては目を離せないものがいくつもある。アカデミックとパンク。スタジオでの実験や技術研鑽か、路上にヒントを求めるか。身勝手な人生とその魅力の一方、表現において相反するもの同士で成立していた奇跡があるのだ。

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【参考文献】『ライアン・ラーキン やせっぽちのバラード』(太郎次郎社エディタス)(文中の発言部分はすべて本書からの引用である。クリス・ロビンソンが記したライアン・ラーキンのドキュメンタリー)

(イラスト by 葛西祝

 

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