【映画レビュー】失敗作『シン・ウルトラマン』〜現代的に描く視点が大局に依存した閉鎖性〜

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(by 葛西祝

『シン・ウルトラマン』ははっきりとした失敗作であって、原作の『ウルトラマン』がこんな風にリメイクされるんだって偏愛が無ければとても観ていられない映画だった。少なくとも自分にとって、失望の多くは『シン・ゴジラ』のように原点を現代に解釈し直す試みがすべて空回りに終わっていたことだ。

“見慣れているはずのウルトラマンが、いま現実で最もシリアスな緊張感を反映した存在として解釈されるのでは”という期待にまったく応えられていなかったことが大きい。『シン・ゴジラ』で見せた現代的な視座を広げる内容を期待していた観客ほど、今回の出来に失望しているように思う。

成田亨のコンセプトに戻ろうとした意味は?

こうした期待は自分だけが持っていたとは思わない。なにしろ公開前から公式のインタビューで原点の再解釈が語られていたからだ

再解釈する試みで象徴的なのは今回のウルトラマンのデザインである。『シン・ウルトラマン』はオリジナルの『ウルトラマン』のデザインを手掛けた彫刻家・成田亨氏の描いた初期の油彩画をもとに、「成田氏が望まなかった、カラータイマーを付けない」という大胆なデザインを制作初期から提示していた。

原作で戦いの緊張感を分かりやすく伝えていた、決定的な要素さえも外すその姿勢からは、やはり『シン・ゴジラ』くらいの期待はかかった。初代ゴジラの核物質というテーマを、あの映画では東日本大震災と福島第一原発事故と照らし合わせたことが映画の生々しい力に繋がったことは疑いようがないはずだ。

だから『ウルトラマン』をどう今、緊張感で張り詰めた存在に見立て直すのかという期待があった。しかし実際には(仕方ないとはいえ)『シン・ゴジラ』の成功体験を繰り返すようなスタイルが足を引っ張っていた。そもそも物語の視点を、大局的な状況を描くことに据えたのが間違っていたと思う。

『シン・ゴジラ』は政府と関係組織が主導して脅威に立ち向かう構成である。さまざまな登場人物の行動を高速でカットを割っていくスタイルによって、室内劇であっても大局が動いてゆく緊張感をもたらした。その緊張感は現実の震災で刻一刻と状況が進行していたことがモデルにあったのは確かで、それを私たちも(大なり小なり)実際に経験していることもあり、映画に生々しい説得力を与えていた。

ところが『シン・ウルトラマン』では高速のカット割りでさまざまな組織を映し、状況を進めようとするスタイルが裏目に出ている。大局を優先した進行によって、個々の登場人物がフォーカスされなくなくなった。

主人公のウルトラマンが死亡した神永新二を理解し、人間側を守ろうとする心象の移り変わりがストーリーの中核にある。だがそれは大局ではなく、登場人物ひとりひとりにフォーカスしなければ描けないものだ。

しかし宇宙人が国家に絡むような大局の描写が優先され、ウルトラマンはじめ禍特対(ひどい当て字である)の隊員たちの行動原理がどこにあるかわかりにくいまま映画が進行してゆく。浅見弘子が神永の相棒となっているように描きたかったみたいだが、具体的な描写はほとんどなく、唐突な展開のように見える。

この失敗を「原作の総集編にしたから」とする指摘もあるようだが、それは完全に間違いで、映画の視点をマクロ(大局)に置くかミクロ(個人)に置くかの選択をミスしており、脚本の技術が低いだけでしかない。肖像画が必要なのに風景画の構図で描いた絵みたいなものだ。とりわけ本作においては、人物と風景が綺麗に収まった構図の絵みたいに、個人を描きながら同時に大局を描くシナリオ構築が必要だったと思う。

ただ、大局的な描写をメインにした失敗は、前作の成功に引きずられてしまうという予測された失望であるのに対し、僕が失望を深めたのはシンプルに怪獣……いやわざわざ書き直すのもバカバカしいが “禍威獣”のデザインそのものだ。成田亨が原作でデザインした怪獣を改悪しているようにしか思えない。

メフィラスやゼットンのデザインは彫塑の名作を何も知らない他人が余計な手を加えた醜さしかない。 “禍威獣”なんて当て字の醜さそのものみたいだ。

制作陣が「成田亨が望まなかったカラータイマーを外す」というウルトラマンをデザインし直しても、同じく成田氏が手掛けた他の怪獣に手を加えるのをよしとする意図がまったくわからなかった。結局それは成田亨の美に手をかけることではないのか? 僕にはクリエイティブの一貫性が欠けているように思えた。

特にゼットンは原作以上の地球規模になった目も当てられないスケールで登場するのだが、これもまた大局的な視点ゆえにデザインも割りを食った形かもしれない。

組織が大局を動かすことが結局リアリズムの根拠にある虚しさ

膨大な詰めの甘さが目立つのだが、決定的に虚しく感じるのは『ウルトラマン』をリアルなものとして描く根拠である。結局、中年男性がほとんどを占める政府組織の室内で行われてることに収斂されていたことだ。

本作は『シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース』の一環となる映画らしい。これがアメリカのマーベルユニバースを意識していることは明らかだ。マーベルやDCコミックスの漫画を原作とした映画が、いまポピュラーカルチャーでもっとも大きなものに成長した背景には、コミックのスーパーヒーローに現代的なリアリズムを持ち込んだことがひとつの大きな理由としてあるだろう。

同じように、子供向けの特撮だったり怪獣映画だったりを現代的なものとして引き上げるのに、作る側にリアリズムを生むための根拠がいる。

根拠にはさまざまな切り口があるだろう。ヒーローが実際の社会で過ごすなら家族は? 税金はどうしてるの? キャリアパスは? 怪獣が現代の自然環境で存在するなら生態系は? 気候変動の影響は?

少なくとも映画を真剣味のある世界として描くために、作り手が何らかのリアリズムを持ち込む場合、まさしく作り手自身がいま生きている現実をどう捉えているかの世界観が問われるのである。

そこで『シン・ウルトラマン』を振り返ると、制作陣が政府関係組織ベースで大局を動かすことをリアリズムの根拠にしている寒々しさがある。

これは考えてみれば嫌な形で示唆的だ。本作は監督や企画・脚本から作家性(つまりは作り手の世界観をすべて見せる)もかなり期待されて観られていたと思う。しかしその世界観が「もしかしたら、この人たちにとって現実的なるものは組織まわりで何かをしていく部分がほとんどではないか」と思わされたのだ。

浅見弘子まわりで「この描写はどうなのか」という批判が流れているのを目にした。僕はそれが、クローズドな年を取った人々で構成された組織にリアリズムを置いた当然の帰結のように思えた。

神永が浅見の匂いを嗅ぐシーンがあった。そこには官能ではなく、油と生臭さが交じり合った匂いを想像させた。人間の(とりわけ男性)が中年を過ぎると耳の裏や首筋から発する匂いだ。

多数の中年が室内に密集して生臭い匂いで充満させていた。『シン・ゴジラ』の時はそれでも総動員して脅威に立ち向かうリアリティがあり、モデルとなった311当時には民主党の枝野幸男氏にSNSがエールを送っていたくらいの共感があった。匂いなど気にしている場合ではなかった。

6年ほど時が過ぎ、目の前の生々しい脅威は薄れたころ、多くの人が知ってのとおり中年に満ちた組織の匂いは不快感のある現実として立ちふさがっている。『シン・ウルトラマン』でもっとも失望するのは、作り手側がウルトラマンを現代化する際のリアリズムが結局そこなのか、ということであり、他のリアリズムによってウルトラマンを見立て直すことことができなかったのかと思うことである。

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イラスト by 葛西祝

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この記事を書いた人

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ジャンル複合ライティング業者。IGN JapanGame Sparkなど各種メディアへ寄稿中。個人リンク: 公式サイト&ポートフォリオ/Twitter/note