(by 満島エリオ

25歳になったら死のうと思っていた。
そればかり考えながら生きていた時期がある。

ものごころついた時から、将来の夢は「小説家になる」だった。自分だけの物語を空想しては、それを一生懸命ノートに書き記した。多くの子どもが一度は通る道だ。

中学生の時、綿矢りさが最年少で芥川賞を受賞した。私はそのわかりやすい「天才」の称号に憧れて、彼女が受賞した19才という年齢までに自分も結果を出したいと願った。
そして高校、大学、就職。ちょうど大学に入学した年、朝井リョウがすばる新人賞を受賞した。その間、私は一本の小説を書き上げるでもなく、賞に応募するでもなく、「小説家になりたい」という思いだけを抱えながら、綿矢りさや朝井リョウがデビューした年齢をあっさりと通り過ぎ、ごく普通に就職した。
掃いて捨てるほど、よくある話だ。

願うばかりで努力をしてこなかった私が、何者にもなれなかったのは自明だった。さらに言うなら、私は勝負自体を避けていた。全力で書いたものが誰にも認められなかった時、自分に才能がないことを突き付けられることが怖ろしくて、土俵にすら上がろうとしてこなかったのだ。そんな人間が「何者か」になんてなれるわけがない。

事務仕事をこなす日々を過ごしながら、私はこの先の「そうじゃない」人生のことを思っては小さな絶望を繰り返した。それをどう肯定すればいいのか、その時の私にはさっぱりわからなかったのだ。

結局、25歳をゆうに越えてサバイブした今、ヨルシカのとある曲が容赦なく私の心を裂く。その曲はこう歌っていた。

<人生、二十七で死ねるならロックンロールは僕を救った>

「27クラブ」という言葉がある。27歳で死んだ、何人もの才能あるミュージシャンたちを差す言葉だ。そこから、27歳で死ぬことは逆説的に、才能を証明する意味も持つようになる。
設定した年齢こそ違えど、私の「25歳」も同じだった。私にもし才能があるのなら、その証明として25歳で死なせてほしかったし、才能がないなら、なおさら25歳で死にたかった。「そうじゃない」人生を、それ以上生き延びなくてすむように。

世の中のほとんどの人生は平凡だ。私になんの才能がなかったとしても、誰も責めたりはしない。私だってそんな理由で他人を否定したりはしない。人は誰しも生きているだけで尊重されるべきだ。けれど自分の人生に限って言えば、そんな価値観はクソくらえだった。

<君の全てに頷きたいんだ そんなの欺瞞と同じだ、エルマ>

私は手放しに肯定なんかされたくなかった。結果を出して認められて、それで初めて意味を持つ。そういう人生を生きたかった。

“25歳になったら死のうと思っていた”
散々書いたけれど、本当に死ぬ気なんてさらさらなかった。痛いのは嫌だし、死ぬのはあたりまえに怖かった。かっこつけで厭世家気取りの私は、安直に強い言葉を使う。そういう言葉で飾れば、少しだけ自分の人生がドラマチックに見えるからだ。そんな小狡ささえ、その歌は赤裸々に暴き出した。

<最低だ 最低だ 笑われたって仕方がないわ 最低なんて語呂だけの歌詞だ>
聴けば聴くほどに、逃げ場がない、と思わされた。

その曲は、『だから僕は音楽を辞めた』というアルバムに収録されている。「エイミー」という青年が「エルマ」という少女に残したもの、という非常にコンセプチュアルなアルバムで、詞に登場する「僕と君」はもちろん「エイミーとエルマ」だ。
けれども、「エイミー」も「エルマ」も、コンポーザーのn-bunaが込めたであろう伏線も意図も関係なく、あまりにもこれは私の曲だった。
曲のタイトルは、“八月、某、月明かり”という。

25歳になる年、私は転職してものづくりの世界に入った。28歳の時とある賞をもらい、文章が少しずつ、お金と仕事になり始めた。
私の人生は、数年遅れで願っていたものに近づきつつある。リミットを越えて生き延びた今、諦めがついたのか、何歳までに死にたいなんて思うこともなくなった。
けれども、自分の人生に対して「綿矢りさにも朝井リョウにもなれなかった余生」という感覚が消えることは、この先一生ないように思う。

天才ではない自分。特別ではない人生。それでも、たった一人でいいから言ってもらいたい。誰もそう言ってくれなくても、自分自身にこの言葉を贈りたい。

<君の人生は月灯りだ 有りがちだなんて言わせるものか>

そんな想いに辿りつくことを願いながら、いま「余生」を生き延びている。

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(c) YORUSHIKA
ヨルシカ公式サイト

 

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