(by みくりや佐代子

正しい母親像、正しい父親像についてこの頃よく考えている。

何をもって正しいというのかはっきりとした定めがないこの概念は、辞書を引けどネットを彷徨えどそれらしい形をしたものしかなくて、ドアの先にドアが続くようにいつまでも惑わされてしまう。

西川美和監督作品「永い言い訳」を観たのは二度目だった。一度目は映画化されてすぐ。再び観ようと思い立ったのは、かつてあの映画に父性らしきものを見た気がするとそんな不確かな記憶がおぼろげに残っていたからだった。

物語は主人公の作家・衣笠幸夫が妻の夏子を事故で亡くすところから始まる。愛人と逢瀬を重ねていた幸夫は夏子の死に涙することができず、悲劇のキャラクターをメディア上で演じていた。一方で、夏子と共に事故死したゆきの夫・陽一は悲しみを言動で猛烈に爆発させる。対照的な2人が出会い、幸夫はその子供たち(真平・灯)の子守りを手伝うことを申し出る。

この映画にはあまりにも女性が存在しない。妻を亡くした男たちが手探りの状態で残された子供らのお世話に奮闘していく。最初はそれがとても頼りないように映ったが、子育てを通じて心が健やかになっていくのは真平や灯よりもむしろ幸夫の方だった。

母親を亡くした家庭に、妻を亡くした他人が介入すること。変わった「家族」の形は長くは続かず、機微なバランスの崩れを感じさせながら物語は進んでいく。特に、真平らの世話に没頭する幸夫に向かってマネージャーの岸本が口にした台詞は私たち観る者にも突き刺さる言葉だった。

「子育てって免罪符じゃないですか。男にとって。(中略)みんな帳消しにされていく気がしますもん。自分が最低なバカでクズだってことも全部忘れて」

妻の死に一度も泣けなかった後ろめたさを子育てで相殺しようとしていた幸夫。亡くしてもなお彼女に向き合っていないことを見透かされているような台詞だった。観ている私たちも徐々に察していくのだ、人の死というのはきちんと悲しみ、悲しみ切らないと完結しないのだと。

そして真平もまたこう零す。

「僕はお葬式の時に泣かなかった。なんでか涙が出てこなくて。そしたら『お前平気なのか』って(言われた)。平気じゃないよ」

泣くことができない者の苦しみを隠れて分かち合うように、幸夫は「分かってるよ、分かってるよ」と繰り返すのだった。

幸夫、陽一、子供らが海へ行くシーンが印象的である。そこへ現れる回想のなかの夏子――その姿のなんと美しいことか。彼らの日常から失われた「女性」という輝きと、手を伸ばせどそれに届かない男性のふがいなさが、未熟で健気でどうしようもなく愛おしかった。

エンドロールを追いながら、この映画もまた、原作小説の著者である西川美和という「女性」が作ったことの意味を私は考えていた。人は誰のために母になり、誰のために父になり、誰のために親になるのだろうか。まさか子供のためだなんてそんなこと思い上がりも甚だしい。与えられているのはいつだって親の方だろう。大人はみんなどうしようもないのだから、きっと誰かを支え、寄り添い、愛を注ぎ続けていないと生きてなんていられないのだ。

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(C)2016「永い言い訳」製作委員会
映画『永い言い訳』allcinemaページ

 

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