【武道家シネマ塾】第14回:『ケイコ 目を澄ませて』~生きること。戦うこと~

  • URLをコピーしました!

(*本稿では一部、物語の結末部分に触れています)

僕がやってきた空手や空道において、試合後は相手に挨拶をするのが慣例だった。

勝っても負けても笑顔で挨拶をし、握手を交わす。「ありがとうございました、いやー強いですね」「いやいやあなたの方こそ。あのまま延長になったらヤバかったです」「このまま優勝してください。チャンピオンに負けたんなら僕も自慢できます」「がんばります。押忍」「押忍」

もちろん、勝った方は優越感を滲ませ、負けた方は屈辱に耐えながらも、そこはお互い大人ですから、一応笑顔でのやり取りを交わす。僕のような平凡な選手は敗戦の挨拶も堂に入ったもので、悔しさを完全に嚙み殺して相手へ敬意を表することが出来る。表面上は。

その日もある選手に負け、挨拶に行った。いつも通り相手の強さを称えた。本当に相手の強さに敬意を持ったし、普段どんな稽古をしているのか、良ければ出稽古に行っても良いか、そんな話もしたいと思った。

だが、相手からの返答はない。ただ僕の顔をじっと見つめて、やがて困ったような笑みを浮かべた。

いたたまれなくなった僕は「……とりあえずありがとうございました! 押忍!」と話を終わらせて、その場を離れた。腑に落ちないモヤモヤした気持ちのまま、客席から残りの試合を眺めた。

翌日、その大会を報じるweb記事で、その選手が聴覚に障がいを持っていることを知った。

『ケイコ 目を澄ませて』という映画で、同じようなシチュエーションを見た。

主人公のケイコはプロボクサー。生まれつき耳が聞こえない。ロードワーク・コースの土手で、先日の対戦相手と出くわす。試合の礼を述べる相手だが、耳の聞こえないケイコに返答することはできない。相手は何も言い返してくれないケイコに戸惑いながら、その場を立ち去る。

僕が格闘技を好きな理由のひとつとして、「本気で殴り合った相手とは友達になれる」という点がある。

生身の人間関係が希薄なこの世の中で、こいつはこんなにも真剣に俺に向き合ってくれているのかと、対戦相手を愛おしくさえ思う。もしかしたらケイコの相手も、ケイコを愛おしく思ったかもしれない。ただでさえ競技人口の少ない女子ボクシングの世界だ。ケイコと友達になりたかったかもしれない。

でも、コミュニケーションの難しいケイコは、相手と健闘を称え合うこともできない。リアクションがないことに戸惑ったまま気まずく立ち去る相手を見て、僕は胸が張り裂けそうになった。

同じ経験をした者として。

“音がない”ということは、格闘技をするに当たって大きなハンデとなる。

まず入会の段階で躊躇されるし、いざ始めても指導者とのコミュニケーションも容易ではない。ミットやバッグでの当たり具合を“音”で判断することも出来ない。試合に出ても、ゴングの音もレフェリーの声もセコンドの声も聞こえない。歓声も聞こえない。もちろんジム側も、試合出場を認めたくない。

圧倒的に“孤独”だ。

だからこそ、あのジムに、あの会長に、出会えて良かった。

会長はケイコについて聞かれた際、「才能はない。でも人間としての器量がある」と答えた。ケイコに器量があるなら、会長にはケイコを受け止めるだけの“度量”がある。僕も格闘技の指導者だが、ケイコのようなハンデを抱えた選手を教えられるかと問われたら、はっきり言って自信はない。ケイコが、以前のジムでは試合出場を認められなかったというのも、よくわかる。リスクが大きいし、事故があった場合に責任を負えない。

会長は、リスクも責任もすべてひっくるめて、ケイコを引き受けたのだ。

ジムの閉鎖が決まった後、会長とケイコが鏡に向かってゆっくりとパンチを繰り出すシーンがある。

普段のミット打ちのような、複雑なコンビネーションはやらない。単発のパンチを、ゆっくりと嚙み締めるように繰り出す。ジャブ。右ストレート。左フック。ウィービング。右アッパー。

ケイコがこのジムに入会した初日、会長がこうやって丁寧にパンチを教えてくれたのだろう。
以前のジムでしっかり教えてもらえなかったケイコには悪い癖がついていて、会長が丁寧に修正してくれたのだろう。
たびたびメンタル面で迷いが生まれるケイコはその度にフォームが崩れ、その度に会長が丁寧に修正してくれたのだろう。

そんな2人の関係性が、よくわかるシーンだ。

会長を演じたのは三浦友和。今、日本でいちばん“厳しくも優しいおじいちゃん師匠”が似合う俳優さんだ。『線は、僕を描く』とこの作品を続けて観て、確信した──お母さん。あなたのアイドルだった三浦友和は、こんなにかっこいいおじいちゃんになりました。

ケイコを演じたのは岸井ゆきの。

僕が初めてこの女優さんを認識したのは、今泉力哉監督の『愛がなんだ』だった。この作品での彼女が、ひと言で言い表せないぐらいに魅力的だった。まっすぐで、かわいくて、エロくて、重くて、怖くて、悲しくて、愛おしい。もう、“女性すぎるぐらいに女性”だった。

僕にとっては「岸井ゆきの=『愛がなんだ』」のイメージだったため、この『ケイコ 目を澄ませて』の主演が彼女と聞いた時、どうしてもイメージが結びつかなかった。『愛がなんだ』での“100%の女の子”(村上春樹は関係ない)と、障がいがあるためによりストイックにならざるを得ないアスリートとでは、完全に真逆のアプローチだ。かわいらしい女の子が「イヤ~ン」て感じで繰り出すペショッとしたパンチのままで、プロボクサーの役をこなすという悪夢を想像した。

不安を抱きながら、本編を観た。イヤ~ンパンチのボクシング映画だったらおそらく途中で寝てしまうので、レッドブルを飲みながら観た。

エンディングテーマのないエンドロールが終わり、場内に灯りがついても、僕はしばらく立ち上がれなかった。“100%の女の子”などではない、“100%のボクサー”がそこにいた。もし舞台挨拶などで岸井ゆきの本人がこの場にいたら、僕は土下座して謝ったと思う。

岸井ゆきの演じるケイコの属性は、女性でも男性でもなく、“ボクサー”だった。

鋭い目付きも、着替えるシーンで見えた背中の筋肉も、縄跳びのリズム感も、難しいメイウェザーみたいなコンビネーション・ミットも、8の字ステップからのスイッチも、試合中の息遣いも、劣勢の際に思わず出た咆哮も、みんなみんなボクサーのそれだった。

この役を演じるに当たって、どれだけ真摯にボクシングと向き合ったのか。運動神経が良ければ、形だけ真似することは出来るだろう。でも、あの普段の目付き、顔付き、試合中のテンパって瞳孔開き気味の目、ブルファイターらしい前のめりな獰猛さ……。決して器用でもスマートでもないが、実際に試合経験のあるボクサーにしか見えなかった。それはもう役作りの範疇を超えている。モデルである小笠原恵子さんが、岸井ゆきのに憑依したように見えた。

ジムの閉鎖が決まり、そのジム所属としての最後の試合にも負け、映画は終わる。他ジムへの移籍を拒否していた彼女なので、ボクサーとしての彼女もそこで終わったかのように見える。

だが、エンディングテーマのないエンドロールが終わった後、聞こえてきた音は、縄跳びのロープが床を叩く音だった。ジムがなくなろうが、試合がなかろうが、ケイコは戦うことを辞めなかったようだ。

現実の小笠原恵子さんはボクシング引退後に柔道と柔術を始め、現在は聴覚障がいのある方を対象に「手話による格闘技教室」を主宰している。映画の中のケイコも、リアルの恵子さんも、どうやら戦うことを辞めないようだ。

どちらも、かっこよすぎて涙が出る。

++++
(c)2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINEMAS
「ケイコ 目を澄ませて」allcinemaページ

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

ハシマトシヒロのアバター ハシマトシヒロ 武道家ライター

武道家ときどき物書き。硬軟書き惑います。
映画/文学/格闘技