(by こばやしななこ)
批判を受けとめることの難しさについて、考えている。
なぜそんなことを考えているのかといえば、数日前に日本配信が始まったアメリカの人気コンペティション番組『ル・ポールのドラァグ・レース』の新シーズンを駆け抜けるように見たあとだからだ。
『ル・ポールのドラァグ・レース』とは、シーズン毎にオーディションで選ばれた人種も年齢もさまざまな10数名のドラァグクイーンが、次世代の「ドラァグ・スーパースター」の座をかけて闘い、毎週原則1人ずつ脱落していく番組だ。ホストはル・ポールという大御所ドラァグクイーン。90年代に歌手やモデルとして活躍し、ハリウッドのウォーク・オブ・フェイムにドラァグクイーンとして初めて名前を刻んだルー(ル・ポールのことを皆そう呼ぶ)が、最終的に誰を脱落させるのかを決める。
番組は2009年にシリーズが開始して以来、世界中に多様な生き方や番組内で謳われる合言葉「自分で自分を愛せなくて、どうやって他人を愛せるの?」というメッセージを伝えてきた。
初日の出場者たちが口をそろえ「今まで死ぬほど努力してきた。準備はできている」と言う時の顔は、スパンコールの衣装に負けず劣らずまばゆい光を放っている。
しかし、コンペティションが始まれば、そんな光はいとも簡単にかげり出す。
「化粧が肌になじんでない」
「努力の方向性がまちがってる」
「もっと自分を表現して」
「ギャグが笑えない」
審査員に批判された出演者たちは、脱落を免れたいのなら指摘されたことを直し、レベルアップしなければいけない。それなのに、彼らは批判によって自分の価値を疑いはじめ、今までの自信は無残に崩れ落ちていく。レベルアップどころか、批判をきっかけにパフォーマンスが下がっていく人は多い。混乱して泣き出したり、仲間をヒステリックに攻撃するクイーンを何人も見てきた。
あるクイーンは、番組のことを「自分はダメだと囁く悪魔との闘い」と表現している。
まっとうな批判や事実の指摘でも、言われた側は傷つく。むしろ的を射た言葉ほど、心を傷つける。痛みを感じながら、その言葉が「聞き流した方がいい悪意ある攻撃」か「自分に本当に必要な指摘」なのかを判断するのはかなり難しい。だからコンペティションの敵は、他の出場者でも審査員でもなく自分自身なのだ。
人の批判をちゃんと聞くための条件は、自尊心を持つことじゃないだろうか。これは私が番組を見ていて思ったことだ。ダメな部分があっても、失敗をしても、自分の存在に価値がなくなるわけではないとしっかりわかっていることが大事なのだ。自分には価値があり、これからもっと良くなれると信じる時、初めて相手の言葉が自分に必要なものなのか理解できる。
視聴者は楽だ。不安に押しつぶされそうでメソメソ泣いているクイーンや、まわりに当たり散らすクイーンがいても、「あぁ、今回はコイツが落ちるな」と思いながら自分を棚上げしてただ見てればいいだけだもの。でも、棚から下りていって番組を見ると、びっくりするほど身につまされる思いがした。コンペティション中のクイーンたちの過剰なふるまいは、他人ごとではない。
ドラァグ・レースを見ながら、批判される心構えについて考えている自分ってなんなんだとも思う。他の視聴者も共感してくれるだろうか?たぶん、私自身に、自分への批判を冷静に受け止められないところがあるのだ。
自信がない人は番組から「自信を持って」というメッセージを受け取るだろうし、弱さを見せられない人は「弱さを見せること」、自分の生き方を自分で制限している人は「自分らしく生きること」について考えさせられるだろう。
そう考えると『ル・ポールのドラァグ・レース』とは、見る人を映し出す鏡なのかもしれない。
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(c) Netflix
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