【ぼくが映画に潜るとき】第8回:『秘密の森の、その向こう』〜互いの哀しみを慰撫する「対等」な抱擁について〜

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はんめを喪った哀しみを、ぼくはだれとも共有できずにいる。その実の娘である母とさえも。

だからぼくはいまだに、はんめの死を現実のものとして認識できていない。もう1年が経つというのに。

「はんめ」というのは、韓国語で「おばあちゃん」を意味する方言だ。はんめが生まれた釜山の言葉で、ニュアンスとしては日本語における「ばあば」だとかに近いらしい。らしい、というのは、ぼくが韓国語に関して読み書きはおろか簡単な会話さえもからきしだから。日本と韓国とロシアにルーツを持つぼくは、生まれも育ちも日本であるため、日本語しか話せない。あとは申し訳程度のしょぼい英語くらい。

そのはんめの訃報を受け取ったのは、去年の秋。認知症を患っていたはんめの身元引受人である叔父が送りつけてきた「遺産放棄を要求する旨の内容証明」で、母はそれを知った。母と叔父はさまざまなことがあり、絶縁状態にあったのだ。そのときすでにはんめの死から、約1ヶ月が経過していた。母とぼくは、はんめを看取ることはおろか葬式で見送ることさえ叶わなかった。

はんめがこの世を去ってから、もう1年になる。それなのにぼくは、いまだはんめの死を信じることができていない。殺生なことにひとつぶの涙さえ、流せていない。母の電話口で泣き喚く声だけが、あれからずっと世界の遠くで響いている。それは母とぼくが、どこまでも噛み合わぬ親子ゆえだろうか。

祖母を亡くした8歳の少女ネリーが母のマリオンと「同い年」の状態で邂逅する必要があったのも、「親子ゆえ」だったのかもしれない。セリーヌ・シアマ監督作品最新作『秘密の森の、その向こう』鑑賞後、ぼくは帰りの電車内で一人腹落ちしていた。

今作で主人公ネリーが出会う相手は、今もなお存命しておりかつ彼女と物理的に会うことのできる母マリオンである。つまりわざわざ時空を越えずとも、交流そのものは可能な相手だ。

ただその交流は、当然ながら対等な関係性の上では行われていない。なぜなら彼女たちは、“親子”だから。ケアする側と、ケアされる側。同じ痛み──ネリーにとっての祖母、マリオンにとっての母の喪失──を共有しながらも、相互で癒し合うことはできない。

「おばあちゃんにさよならが言えなかった」と泣くネリーを、マリオンは抱きしめてあやす。でもマリオンを宥めることは、ネリーにはできない。マリオンはそれを、ネリーに求めることができない。マリオンは、「母」だから。ネリーは、「娘」だから。

そのためか、ある日マリオンはネリーに黙って片付けのために滞在していた生家を出て行ってしまう。理由をネリーに告げなかったのは、子に親である自分のケアをさせてはいけないというマリオンの理性からか、あるいはまだ幼いからわからないだろうという諦念からか、それとも単純に気持ちの整理がつかず言語化できなかったからか。

何も言われずに置いて行かれた寂しさを、ネリーはただあいまいに微笑んで受け容れる。ネリーには、そうするしかできない。愛する母が自分の背中をさすってくれるのと同じように、母の背中もさすってあげたい。でも、できない。それがネリーには、やりきれない。

だからネリーは、時空を越えて「同い年のマリオン」に出会う必要があったのだ。大好きなお母さんを抱きしめて、背中をさすってあげるために。哀しいよね、怖いよね、でも大丈夫だよ、と、慰めて励ますために。

マリオンの家に招かれて、すぐにそこが「過去」の祖母の家であること、そして目の前の「マリオン」が母であることを、ネリーは理解する。一度は動転して「現在」の祖母の家に逃げ帰るが、それでもネリーはわりにするんと時空の歪みを受け容れた。

「過去」の祖母の家には、当然ながらまだ存命かつ若い祖母もいるのだが、祖母がこの時分から杖をついて生活していたことを知り、ネリーは胸を痛める。

「私、3日後に脚を手術をしなきゃいけないの。手術をしないと、お母さんみたいになっちゃうから」と、マリオンは告白する。そしてネリーもまた、「お母さんが出ていった」と打ち明ける。

不安を吐露し合うふたりは、急速に心の距離を接近させる。ネリーには「現在」のマリオン、すなわちお母さんの哀しみを宥めてあげることはできない。でも、同い年の8歳のマリオンなら、同じ目線で背中をさすってあげられる。やがてネリーは自分たちが親子であることを告げ、マリオンはそれを即座に信じる。

秘密を共有したふたりは、強い絆で結ばれる。「現在」の時間軸とはまったく別の関係性を、ネリーとマリオンは築き上げていく。森の中に小屋を立て、ごっこ遊びをし、クレープを焼き、対話を重ね、いつしか“親友”になっていく。“親子”でありながら。

ぼくと母の関係性は、ネリーとマリオンの「現在」の“親子”としてのそれに比べると、もっとずっといびつだし質も異なる。ネリーは8歳の子どもだけど、ぼくは30歳の大人だ。ネリーにとってマリオンは世界のすべてだけど、ぼくにとっての母はもうすでにそうではない。かつてはぼくも母が世界のすべてだったけど、その季節はとっくの昔に通り過ぎた。それでもぼくと母は、“親子”だ。そして最悪なことに、愛し合っているとは言い難いほど関係はねじれてしまっている。

でも、もしもこんなふうに、「同い年」の母と出会えるのなら。この映画を観たあと、ぼくはそんな妄想をめぐらせずにはいられなかった。真っ赤に紅葉した森を見つけたら、ぼくは迷わずその中を突き進むだろう。獣道を抜け、開けた場所を探し、丸太の上に座って文庫本を読む若き母を見つけたら、きっとその隣に座る。そこで彼女と友だちになって、はんめの話ができたなら。

きょうだいの真ん中っ子だった母は、いつだったかこう言っていた。「お母さんは私のことを、あんまり好いてはなかったんちゃうかな」と。物静かで内向的な母と、感情をそのまま表に出すはんめとのあいだには、確執があった。そのはんめによく似たぼくと母が、どうにも噛み合わぬのと同様に。そして母の抱える満たされなさは、いよいよ永遠に棄て置かれることとなった。

そうじゃないよ、と彼女の手を握りたい。あなたのお母さんは民族的マイノリティゆえに日本でお金を稼ぐのに苦労してて、それで夫と力を合わせて生活の基盤を固めるのにただ必死だったんだよ。真ん中っ子のあなたはあまり構ってもらえなかったことを寂しく感じていたかもしれないけど、それはたしかにあなたのお母さんの落ち度だけど、でもあなたを愛していなかったわけじゃないんだよ。

いつだったかこっそりとぼくに──感情がそのまま顔に表れてしまう自分とよく似た孫のぼくだけに漏らしたはんめの本音を、そのまま母に伝えてみたい。母が出て行ってしまったのは自分のせいじゃないかと思い悩むネリーに、マリオンがきっぱり「私が悲しいのは、私のせい」と言い切ったみたいに。

祖母の家の片付けが予定より早く済んだため「帰ろう」と言い出す父親に、ネリーは「マリオンのお誕生日会をするためにお泊まりに行きたい」と抵抗する。すなわちそれは「現在」のマリオンの誕生日でもあるため、父親は「また今度」と嗜めようとする。しかしネリーは強い口調で「今度はないの」と言い放ち、目の前の──つまりは8歳のマリオンを選んだ。“母親”のマリオンではなく、対等に抱きしめ合える“親友”のマリオンを。

誕生日会の翌日、マリオンは病院へ向かう。別れのとき、ひしと抱き合うちいさなふたりのシルエットは、あまりにも美しかった。そしてネリーはここで、悔恨を浄化する。マリオンの付き添いで病院へ向かう車に乗った若き祖母に、そっと「さよなら」を告げて。

ネリーが「現在」の祖母宅に帰ると、がらんどうになった部屋の真ん中に母のマリオンが座り込んでいた。ネリーは抱きつくのではなく、ただ静かに隣に座る。置いていったことを詫びる母に、ネリーは「謝らないで、いい時間だった」と返す。そしてふいに、ネリーは母を「マリオン」と呼ぶ。「ママ」、ではなく、名前で。“親友”のマリオンを呼ぶのと同じように。マリオンはそれを聞くと、泣き笑いの表情を浮かべてネリーを固く抱き締めた。

今もなお宙ぶらりんな哀しみは、「対等」な母と出会うことで、消化できるのだろうか。もしも紅葉した森を潜った先で「同い年」の母と出会えたら、ぼくは彼女を少しは理解できるだろうか。

お母さん、ぼくはあなたと、はんめの話をしたい。森の中に立てた小屋の中で、空が白むまで、ぼくとよく似たあなたの母の思い出を語り合ってみたい。そして気の済むまでわんわん泣いて、互いの涙を拭きあって、あなたと抱きしめ合ってみたい。そんな荒唐無稽な妄想を、今夜もぼくはやめられそうにない。

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(c)2021 Lilies Films / France 3 Cinema
「秘密の森の、その向こう」allcinemaページ

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この記事を書いた人

伊藤チタのアバター 伊藤チタ “ヤケド注意”のライター

エッセイスト。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。古着とヘッセが好き。
映画/小説/漫画/BL