(by あでゆ)
先日、映画版『アサシンクリード』を観ました。物語の出来不出来はひとまず置いておくとして、正直にいってこの映画化はあまりうまく言っているとは思えませんでした。なぜなら、本作はもともとビデオゲームのシリーズだからです。

アサシンクリードシリーズは、人々の自由を求めようとするアサシン教団と、思想を統一することで世の中に秩序と“平和”をもたらそうとするテンプル騎士団が「エデンの果実」と呼ばれる秘宝を巡って争いを繰り広げる物語です。「果実」は人々の思想を操作できる神の兵器で、端的に言えばドラゴンボールのようなもの。
この「果実」の行方を求めるため、両者はアニムスと呼ばれるトンデモマシンを用いてその遺伝子に刻まれた記憶を辿り、先祖の起こした行動を追体験します。例えば『アサシンクリード2』では、現代の主人公デズモンドがその先祖にあたる中世ヨーロッパのアサシン、エツィオをプレイすることで「果実」の足跡を追うことに。

小難しいことを言いましたが、要するにゲームを遊ぶプレイヤーそのものをゲームキャラクターに組み込んでしまったギャグみたいなゲームなんです、これ。
設定上でもゲーム的なUIはアニムス上でのインタフェースであるなどの解釈がなされており、まさにビデオゲームのビデオゲームによるビデオゲームのための物語といえるでしょう。
だからこそ、映画で同じことをそのまましてしまうとちぐはぐになってしまうように思えるこのお話。ところが、それがうまくいっている場合もあります。今回紹介する『アサシンクリード エンバース』がそうです。本作は、先ほど紹介したエツィオサーガの結末を描く短編映画となっています。

話は飛びますが、アサシン、めちゃくちゃかっこよくないですか? それにフード付きのパーカーを着たら誰でもちょっとそれっぽくなるのが良いところ。彼らの歩き方を真似しつつ、手首を少し反らせてアサシンブレードを出すような動きを一度はしてみたくなりますよね。え?私だけ?
中でもエツィオは特にかっこよく、その凄まじい人気もあって『アサシンクリード2』、『アサシンクリード ブラザーフッド』、『アサシンクリード リベレーション』となんと3作品に渡って主人公として引っ張り出されます。結果として、(ファンの強い希望もあって予定外にも)その誕生から晩年までがデズモンド(プレイヤー)に全て操られ、彼の人生はゲームのために消費され続けることになってしまうわけです。
流石に、エツィオも自分の人生が自分のものではないことに気がつきます。かといって、それを悲観するでもないのが彼の強さでしたが、最終的にその役目を終えて自分の人生を生きることを選びます。『エンバース』は『リベレーション』のその後、引退状態にあった彼の最後の戦いが映像作品として描かれるのですが、今作での彼の活躍は、あくまでも自らの意思によるものです。

彼はすでにプレイヤーの手から離れています。だからこそ、老い先短い高齢になってもなお、未来を繋ぐために死の際まで新人のアサシンを育てようとする姿に胸を打たれてしまいます。
「我らアサシンの人生は苦しみに満ちている、癒されることはない。だが全ては、この世から苦しみを消すためだ」
結局、彼は死ぬまでアサシンであることを悔いず、アサシンとしてその生涯を全うしました。
ありがとう、エツィオ。そして眠れ、安らかに。
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(c) Ubisoft Montreal Studios