これは現代人の悪い癖だと罪悪感を抱きながらも、この映画を観に行く前にレビューをいくつかチェックした。邦画といえばつまらない、という偏見が私を不安にさせたせいである。
星の数は想像より少なくはないが決して多くもない。レビューの内容を見てみると、どうもこの作品は“傷の舐め合い”呼ばわりをされているようだった。
この映画には原作がある。
『大きなハードルと小さなハードル』という短編集の最後に収録されており、作家の名前は佐藤泰志という。彼は41歳という若さで自ら命を絶っている。
大学で哲学科を学んでいるというのが興味深かった。自律神経失調症も患っていたというのだから、さぞかし神経質で繊細だったに違いない。息抜きする間もないくらい、生きている時間のほとんどを絶え間ない苦悩に費やしてきたことだろうと想像する。
そんな人が果たしてただの“傷の舐め合い”物語を描くだろうか。
若くして小説家としてデビューするもその後は鳴かず飛ばずな主人公・慎一の元に、子供・アキラを連れた女・裕子が引っ越してくる。彼女は慎一の元職場の先輩の妻だった人である。
裕子が越してくる少し前、慎一は当時付き合っていた彼女と同棲をしていたのだが、行き過ぎた嫉妬と独占欲により愛想を尽かされ、彼女は家を出てしまった。
慎一はプレハブ小屋で、裕子たちは母屋で暮らす。そんな“ワケあり”な二人が始めるいびつな半同居生活と共に物語が始まる。いい歳した大人の男女が一緒に暮らして何も起きないはずがないのは、誰にでも想像できるだろう。
私はこの映画を見終えた時、ずっとある言葉が頭から離れなかった。
「でも、そう考えただけで、素晴らしいじゃないか」
慎一が本を読んでいるときにふと声に出した台詞だ。
確かに慎一と裕子はお互いの傷を舐め合うことになる。三人で海に出かけた際にクラゲに刺されてできた発疹がある慎一の腕を、裕子が舐めるのだ。なんて親切すぎる見せ方だろうか。そのままダメな二人はダメなセックスをする。発情期の鳥のように。
きっと大多数の人の眼には愚かだと映るかもしれないが、私には美しく感じられた。
つくづく思う──人間の理性ほど信用できないものはない、と。なにを私たちは日頃から、さも自分だけはまともですなんて顔をしながら生きているのだろう? いかに“自分は秩序を保った人間である”とでも言いたげなツラを下げて昼間働いていても、夜になればそんなことも忘れて酒に酔い、自分の声のボリュームすらコントロールできなくなる。
週末の駅のホームで酔っ払いすぎてゲロを吐いている大人たちに比べたら、この二人のほうがよっぽど本来のあるべき人間の姿ではないだろうか。
一度ついた傷痕も、日に日に肌が再生していくうちに元どおりになる。
それは決して傷ができる前の状態には戻らない。でも、新しくできた皮膚ができるだけ傷痕が残らないようにカバーしてくれる。ひょっとしたらうっすらと痕は残るかもしれないけれど、もっともっと時間が経てば肌に馴染んできっとわからなくなる。
そんな風にして、二人の傷もきっと癒えていくのだろう。
これは決してネガティブな物語じゃない。
世の中には自分には分別を持っていると信じている人がたくさんいる。しかもその分別が、どの世界でも正しいと信じている。
お店の人の態度が頑固で話しかけにくいものだとしても、料理の腕が良ければ完璧じゃないか。
医者がきちんと話を聞いてくれて処方薬を出してくれれば、受付の人がそっけなくたって医療の技術とは関係ないのだからどうだっていいじゃないか。
それなのに人というのは関係のないところですぐに怒りを覚え、口コミで難癖をつけてしまう。
この映画を「ただの傷の舐め合い」だと低評価した人たちもそうだ。
ダメな大人がダメなセックスをしたっていいじゃないか。どうせ架空なのだ。
慎一と裕子はこのままダメになっていくのかもしれないし、もしかしたらこれからもアキラと三人で楽しく暮らしていくのかもしれない。
どうせ空想するなら、明るい未来のほうがいい。たとえそれが現実とかけ離れているものだとしても、「そう考えただけで素晴らしいじゃないか」。そんな風にして現実を生きていくことができたなら、きっと少しは気楽に日々を過ごせるかもしれない。
そしたら、世の中のことに苛立ったり怒ったりせず気楽にやっていける気がする。
まあそう考えれば、道端で酔いすぎてゲロを吐いてしまう人たちだって傷の舐め合いと同等に美しいのかもしれない。なんて考え直してみたり。
自分の持っている分別が正しいとは限らない、そんなことを教えてくれる映画だった。
本当に、素晴らしかった。
++++
イラスト by おゆみ