(by 安藤エヌ)
クリスマスが近づくにつれ、街は華やぎ、色づいていく。ディスプレイに飾られたサンタクロースの人形を見て思い出されるのは、幼い頃の記憶だ。
小学生の頃、冬休みになるといつも母方の祖父母の家に遊びに行っていた。家庭の事情など何ひとつ知ることのなかった私は、父親のもとから離れた場所で優しい祖父母に迎えられ、そして12月25日の夜になるとクリスマス会を居間で開いていた。手作りの飾りつけ、百貨店で買ってきたショートケーキ、そして、夜になると郵便受けに入れられるプレゼント。そのどれもに心躍らせ、私は毎年とても幸せなクリスマスを過ごしていた。
しかし大人になるにつれ、そうした楽しい思い出は幼い私がクリスマスに悲しい記憶を残さないように、母と祖父母が準備してくれていたものだったと知った。
私の家族は、決して完璧でもなければ、絵に描いたように仲むつまじいものでもない。幼い頃から、父が母に向かって何かと文句を言ったり、理不尽なことで怒鳴って喧嘩になる姿を見ていた。幼心に、両親が大声で喧嘩をしているのは見ていてつらかったし、仕事から帰ってくるとテレビのある居間にどかっと座り、出される料理を待ち、野球やバラエティを見てただ笑っているだけの父の姿に疑問を抱いていた。
どうして父親というだけで、あんなに偉そうにしてられるのだろう。
男であるというだけで、どうしてあんなに威張れるのだろう。
そんな風に思っていたけれど、口には出さなかった。うちではそれが「普通」なのだから、子どもである私が何か言ったところで変わらないと思った。けれど今思えば祖父母の家で、私がマンガを読みながら耳に挟んでいた祖母と母の話は、父親への苦言や愚痴だったように思う。母は父のもとから「逃げたくて」、祖父母の家に私を連れて泊まりに行っていたのだ。
大人になった私は思う。母はどんなにか辛かっただろう、と。ひとりで罵声を受けとめ、ひとりで食事を用意し、そして父のいない場所を求め祖父母の家に行き、せめて娘が楽しみにしているクリスマスには楽しい思い出を残してやろうと、ケーキやプレゼントを買ってくれた母のことを思うと泣きそうになる。
サンタクロースは母だった。私を想ってくれていたのも、母だった。私はあの時、「ありがとう」を言えなかった。自分の家族がいびつな形をしていることに気づけなかった。ただ一方的に幸せを享受して、クリスマスは1年の中でとびきり幸せな日だと思っていた。でもそれは、母が一生懸命、私を愛してくれていたからこその「思い出」であり「プレゼント」だったのだ。
小さい頃から映画が好きだった私は、大人になった今、映画のレビューを書く仕事をしている。クリスマスの時期になると、必ず「幸せな日」にふさわしい映画が公開される。
“家族と観たい”
“家族愛に号泣”
“家族の大切さを感じる”
そういった映画のキャッチコピーにつけられる、家族、という言葉。私はこれに、いつも小さなとげが刺さったような違和感を覚えていた。
家族って、互いを想い合わないといけないの?
父親と母親、どちらからも愛されないといけないの?
どんなものよりも家族が大事と思わなきゃいけないの?
私だけではない、きっとたくさんの人が感じている。家族という集団の中で愛を感じられない人や、両親のどちらかと上手くいっていない、またはどうしても家族として好きになれない人。きっと今の時代には、そういった人がたくさんいる。
だから、私は言いたい。家族愛を描いた映画に、感動できなくてもいいんだよ、と。
クリスマスは、家族と過ごさなくてもいい。クリスマスに、家族を主人公にした映画を観なくてもいい。あなたの幸せは、あなたにしか感じられない。それを、家族に譲らなくていい。彼らのことが、大切であってもなくてもいい。
幸せの定義は、無限にある。その中で、あなたの思う幸せを見つけてほしい。
私のクリスマスの思い出に、父はいない。それでもいい。
母と祖父母が、愛してくれた。それだけで、私は幸せなのだ。
もうすぐでクリスマスがやってくる。この文章が、どこかでうずくまってひとり苦しんでいる人に届けばいいと思う。ひとつの明かりになれればいい、と願う。
家族という呪縛から、ひとりでも多くの人が解き放たれていってほしい。そして、自分の思ういちばん美しくて、お気に入りの映画をひとつ、見つけてほしい。クリスマスの夜にはその映画を観てほしい。
そうしてあなたに、幸せになってほしいと願うのだ。