『ジョーカー』を観た後、売店でパンフレットを買った。表紙には口角を指で無理やり上げて笑い顔を作りながら涙を流す、ピエロの化粧をした主人公の顔が印刷してある。映画のオープニングシーンだ。

私の恋人は表紙の顔に触れ言った。

「皮膚の中の痛みだ」

これ以上、この映画を表現する言葉はないと思った。

「皮膚の中の痛み」とは、ソーシャルワーカーの中島康晴さんの言葉で、彼が支援してきた人々が抱えている“辛さ”や“苦しみ”への表現である。人の痛みというのは外側からはわからない。他人が客観的に測ることも出来ない。

『ジョーカー』は簡単に言えば、『バットマン』に登場するヒーローの宿敵、悪役ジョーカーがいかにして誕生したかという話だ。主人公は後にジョーカーになる男、アーサー・フレックだ。

観客はアーサーの目と、皮膚の中の感覚を通して、彼が生きている世界を知ることになる。

コメディアンを夢見るアーサーはピエロの派遣として働きながら、年老いた母親と一緒に暮らしていた。彼は発作的に笑いが止まらなくなる障害を患っている。

アーサーの住む街は、貧富の差が拡大していて治安の悪化が著しい。物語が始まってすぐ、ピエロの仕事をするアーサーは不良少年たちにリンチを受ける。その後の反応から彼が何度も同じような目に遭ってきたのがわかる。オープニングで彼が流した涙は、この日々を黙って受け入れる苦しみの涙だろう。

あることをきっかけに、アーサーは徐々にジョーカーに変わっていく。その過程で、何人かの人を殺める。

私は人を殺したアーサーに、悪のレッテルを張ることはできなかった。

映画が殺人を肯定しているとは思わない。「殺人者にも人格や感情や皮膚の中の痛みがあり、同情の余地がある」ことと「だから殺人をしてもいい」ことはイコールではない。

『ジョーカー』はアーサーの内側から見た世界が描かれているので、見る者は彼に感情や人格があることを、それは支離滅裂ではないことを、認めざるを得ない。それを殺人の肯定と捉え、『ジョーカー』が危険な映画だと感じる人もいるだろう。殺人を肯定することと、彼が抱いている痛みや人格を認めることは違う。後者は危険なことではない。

そもそも、映画の主人公が敵を殺すことなんてよくあるじゃないか。映画と現実は違う。映画で描かれる殺人は、筋が通っていればOKな部分があるように感じる。

アーサーは筋が通った男だ。彼が殺したのは、彼と対面した時、彼に対してどうしたかという点で、道理に反していた人だけだ。社会を憎んでいたのでも、政治的な意図があったのでもない。相手が金持ちだろうが貧乏人だろうが関係ない。アーサーは自分を騙したり、貶めた人に対して怒った。

殺しを経験したアーサーは、解放されたように優雅に踊る。踊りながら感じているのは明らかにプラスの感情だ。彼が踊るシーンはとても素敵で、思わずうっとりと見入ってしまった。

彼は意図しない形で“私刑人”として世間に注目される。最初に殺した男たちがたまたま、社会に怒りを抱える民衆の敵だったからだ。これは、アーサーが初めて、たくさんの人から存在を認められた経験だった。

映画の冒頭のアーサーは辛かった。社会からはみ出した自分を、無理やり社会に合うように変容させて生きていた。

アーサーはジョーカーへと変わりながら、社会の枠に収まることをやめた。人が笑わなくても、自分が面白いと思うジョークを言えばいい。許せない奴は許さなくていい。その上、生まれて初めて世間に認知され、この世に存在していると実感できた。

客観的に見れば、アーサーがジョーカーになっていく過程は“転落”である。しかし、アーサーの皮膚の中の感情に寄り添えば、彼がジョーカーになることは辛く苦しい人生からの“解放”だ。彼がどんどん自由になってゆく様は、晴れやかで美しい。

強烈な痛みを抱えて生きている人ほど、アーサーがジョーカーになっていく過程を、自分と重ね易いだろう。痛快さを感じ、「自分も理不尽な扱いをする奴らを殺してやる」とまで思う人さえいるかもしれない。だとしたらやっぱり、危険な映画と言われるのも無理ないのか。

そこまでの辛さを抱えて生きている人が、現実の私の住む街にもいると想像できることが辛い。誰が彼らの皮膚の中の痛みを理解してくれるのか。手を差し伸べてくれるのか。

私はどうだろう。

優しい人間になりたいけれど、理想はまだ遠い。

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(c)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM &(c)DC Comics
映画『ジョーカー』公式サイト

 

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