【新作映画コラム】『マイ・ブロークン・マリコ』~傷を抱える私が観た、“大丈夫になるための”物語〜

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どうしようもない不安に駆られ、安定剤を手に取り、夜のしじまの中で思うことがある。どうか、私に「大丈夫だよ」と言ってくれる人がそばにいてくれますように、と。

そんな時、やたらと心臓の音が大きく聴こえる。煩わしくなるくらい、生きていることを実感する。

『マイ・ブロークン・マリコ』は、そんな私を救ったマンガだった。救われたと言っても、傷が癒されたわけではなく、むしろ傷だらけになったのだが、不思議とつらくも苦しくもなかった。残ったのは鈍器で頭を殴られたような衝撃と、心の中に溜まっていた吐しゃ物のようなものが一掃された爽快感だった。

そんな作品が実写化すると聞いて、以前からずっと楽しみにしていた。この作品は絶対に血の通った人間が演じるべきだと強く思っていたからだ。シイノのえずき、マリコの微笑み、ふたりが生温かい身体を寄せ合うさまを、映画という形で観てみたかった。そこにほんの少しの恐れはあったが――なんせ、癒されるどころか傷だらけになったマンガだ――、楽しみのほうが勝り、映画館の椅子に座り、物語の幕が上がるのを静かに見守った。

そして、冒頭数分が経ち私は一抹の違和感を覚えた。なんだろう、このしっくりこない感じ。生きている人間が演じていて、シイノもマリコもそこにいるのに、どこか一枚の薄い膜が私と彼女たちの間を隔てている感覚がした。その違和感の正体は、すぐに分かった。

私は最初に出会った、荒々しくも美しいタッチで描かれたシイノとマリコを、自分が思った以上に愛していたのだ。

ゆえに突然リアリティを持って目の前に現れた時、これは違う、と感じてしまった。マンガは紙上で繰り広げられるものだから、二次元でありリアルじゃない。実際の俳優たちが演じるキャラクターの方が存在感があるはず。なのに私は、どうしようもなくマンガのシイノとマリコに会いたくなっていたのだ。

そうか。私は、ペンの先から生まれた燃えるようなふたりに心を奪われていたんだな。

ふ、と落ち着きを取り戻す。そうと分かれば、穏やかに観られる。深呼吸をし、スクリーンを見つめた。しばらくすると、すっとシイノとマリコが私の前に立ち現れて、ゆっくりと息をし始めた。叫び、慟哭、涙。すべてがちゃんと“届いてきた”。ふたりの姿から、ちゃんと言葉にならないものを受け取れるようになっていた。

リアルの人間から発せられる対話や一挙一動。瞬きもせずに見つめ続けた。するとまた不思議な感覚に襲われた。この映画の中に、“私”がいる。不完全で、いびつで、誰かに縋らないと生きていけなかった頃の自分が、彼女たちと一緒にいた。

死んでしまったマリコの遺骨を連れ、岬に向かったシイノが出会ったのはマキオという男だった。彼はシイノに手を差し伸べる。自分が一度、闇に呑まれたことがあるから、彼は人に優しくする。否、優しくできるようになった。私もそうだ。心を病んでから、人を見る目が変わった。苦しみにあえいでいる人を、放っておけなくなった。マキオは私だ。“大丈夫じゃなかった”けれど、“大丈夫になった”人間。

「僕、歯磨きが好きなんです。どうですか、これ」

朝の海辺、船の上で野宿をしたシイノに歯ブラシを渡すマキオ。そう、何もかもだめになってしまった時には、歯磨きすらできない。こんな誰でもできてしまう行為が億劫に感じる時が確かにあることを、このシーンを観て思い出した。

海を見ながらふたり並んで、シイノが歯磨きをするシーンが好きだ。シイノがマリコの骨箱の前で、箸を刺した牛丼に手を合わせるのも好きだ。

病のどん底にいた時、私はみるみると食欲を無くし、痩せていった。食べることに喜びを見出せなかったのだ。豪快にものを食べるシイノの姿を見ていると、あの頃の自分を思い出す。シイノは生きている。彼女はマリコと違い、生きるエネルギーに満ち溢れている。マリコは、そんなシイノの魂に惹かれたのだと思う。肥沃で、たくましくて、強い魂に。

“生きる”とは、こういうことなのだと思う。歯磨きをし、食べ、また歯磨きをする。その繰り返し。主題歌のタイトルにもなっている“生きのばし”とは、当たり前の日常行為を文句を言いながらも慎ましくやり続けることを言うのではないだろうか。

「大丈夫に見えますか」「大丈夫に見えますよ」

この映画は、大丈夫じゃない人たちの物語だ。マリコもシイノもマキオも、みんなどこか大丈夫じゃない。だけど、いつか大丈夫になっていく。時に劇的に、時に緩やかに。マリコの場合、この“大丈夫になる”というのはシイノの一世一代の弔いによるもので、海に骨が飛び散った瞬間、彼女の魂は“大丈夫になった” 。同時に、シイノもあの瞬間に“大丈夫になった”のだ。

繰り返し伝えておくが、『マイ・ブロークン・マリコ』は傷を癒すための作品ではない。傷を抱えた人がいつしか“大丈夫になっていく”のを、そっと見守ってくれる。

時が巡り、人ごみにまぎれ、毎日どうにかこうにかしがみついて生きる人達に差し出される、ひとつの物語としてのさりげなさ。ふと経験する、窓から差し込む光のような出来事。映画というものはこうあるべきな気がする。この映画を観てからも、変わらない日常は続く。でも、少しだけ、何かが違って見えてくる気がする。心臓の鼓動は相変わらずうるさいけど、今はそれが心地いい。

うん、私はちゃんと“大丈夫”だ。燦燦と照る太陽に目を眇め、生を感じるのを、今の私なら恐れない。自分の身体の生温かさも、愛しく思えてくる。

かつて苦しんだ人、今苦しんでいる人へ。壊れちまってもいい、生きてさえいれば。

悲しい光景が目に沁みて痛くなったら、この映画を観てほしい。けんめいに生きている自分を、愛してみたくなるかもしれないから。

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(c)2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会
『マイ・ブロークン・マリコ』allcinemaページ

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この記事を書いた人

安藤エヌのアバター 安藤エヌ カルチャーライター

日芸文芸学科卒のカルチャーライター。現在は主に映画のレビューやコラム、エッセイを執筆。推している洋画俳優の魅力を綴った『スクリーンで君が観たい』を連載中。
写真/映画/音楽/漫画/文芸