【新作映画コラム】『すずめの戸締まり』~きれいごとでは終わらせない~

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(*本稿では一部、映画の核心部分に触れています)

『すずめの戸締まり』を観るために映画館に行ったら、開始10分で寝てしまった。

つまらなかったわけではない。長い予告編が終わり、おなじみのノーモア映画泥棒も終わり、やっと本編が始まり、「さあ、映画を観るぞ!」と前のめりになったところで──。

寝落ちした。

目覚めるとすでにエンドロールであり、野田洋次郎の美声が響き渡っており、隣の嫁は涙ぐんでいた。単なる個人の娯楽としての映画鑑賞なら、かわいく「寝ちゃった♡」とか言っとけばいいのだが、僕はこの映画でレビューを書かねばならんのである。

翌日、再挑戦した。2度目だから自腹だ。

前夜は9時間寝た。「今度寝たら必ず起こすように」と、再度嫁を同伴した。上映前にレッドブルを一気飲みした。上映中もブラックコーヒーを飲みながら観た。おかげで利尿作用との戦いではあったが、無事完走した。

完走してみて、寝落ちした理由を理解した。
きっと、僕の“防衛本能”みたいなものが、働いたのだと思う。

何度か書いているが、僕は“空道”という格闘技を嗜んでいる。空道は宮城県仙台で発祥した武道であり、その第1号道場も仙台にあった。
“あった”という過去形で示す通り、今はない。なくなってしまったのだ。
2011年3月11日の震災のために。

僕は大阪在住なので、直接被災したわけではない。不幸中の幸いか、僕と交流のある東北空道関係者で、亡くなった方はいない。だがその中にも、ご家族を亡くした方や家を失った方もいる。車で津波から逃げていたが、車を乗り捨てて高台に登ったおかげで、辛くも助かった方もいる。直後に車は波に飲まれたそうだ。

今作『すずめの戸締まり』の舞台は、実際に2011年3月11日に東北で震災が起こったという世界だ。

震災直後の焦土のリアルさ。繰り返される地震警報の不快感。そして、僕がもっとも胸をえぐられたのが、主人公・鈴芽の叔母・環が、思わず本音を吐露するシーンだ。
4歳の時に震災孤児となった姪・鈴芽を引き取り、12年間育ててきた環。一見、本当の家族のように仲良く見える。若干環が過干渉気味ではあるが。

だが、ふたりが諍いを起こすシーンで、環が爆発する。

「あんたが来てから家に人も呼べんようなったし、こぶ付きじゃあ婚活だって上手くいきっこないし……。こげな人生、おねえちゃんのお金があったって全然割りに合わんのよ」
「私の人生返してよ!」

これはサダイジンに言わされたセリフではあるが、環自身の心の奥底の本音でもある。

おそらく、あの震災で何人もの震災孤児が生まれ、突然彼らを引き取ることになった家庭が、これもまた何世帯も生まれたはずだ。

上手くいっている所はいいが、そうでない家庭もあるだろう。上手くいっているように見えても、心の奥底にストレスを抱えながら、なんとかやり過ごしている家庭もあるだろう。関係を築く努力をしたものの、結局築けなかった家庭もあるだろう。

亡くなった人たちばかりではなく、生き残ったが故に辛い思いをした人たちもいる。
そのような人たちが、今作をどのような気持ちで観たのか。僕は被災者ではないのでわからない。語る資格もない。

ただ僕は、あの震災の日に感じた恐怖と不安を、思い出した。海に飲み込まれる沿岸部の町をニュース映像で観て、「東北の仲間たちはみんな死んでしまったのか!?」と早合点し、崩れ落ちそうになった日を思い出した。

今作が「あの地震」をダイレクトに描いているということは、あまり前情報としては伝わっていない。当然、僕も知らずに観た。ただ、序盤の幼い鈴芽が母親を探すシーン。その時点で何かを感じ取った僕の“本能”のようなものが、僕の脳を強制シャットダウンしたようにも思える。それが、1回目の寝落ちの僕なりの解釈だ。単に寝不足と二日酔いのせいかもしれないが。

作品そのものは、本当に面白かった。
演者のみなさんが、それはもう素晴らしかった。メインキャストのほとんどが、本業を声優としない人ばかりにもかかわらずだ。

特に宗像草太(椅子)役の松村北斗。80年代の神谷明みたいな“正統派アニメヒーロー声”が、実に秀逸だった。これで声優初挑戦というから、恐れ入る。

そう。
面白かったのだ。すごく。

だが、なにかが胸に引っかかっている。もやもやが消えない。スカッと面白い映画は、ひとしきり「面白かったね~!」とか言いながら帰りに酒でも飲めば、綺麗に忘れてしまう。それが、娯楽映画のいいところでもある。

今作も「美男美女の冒険譚」という王道の娯楽映画でありながら、酒を飲んでも、一晩寝ても、忘れることができない。喉に引っかかった魚の骨のようなものが、いつまでも取れない。

この感覚は、昔何度か味わったことがあるな。なんだっけな──。
思い出したら何のことはない。昔の新海誠の作品を観た後の感覚だ。

『君の名は。』でガラッと作風を変える以前の新海誠は、基本的に“バッドエンドの人”だった。「この展開なら普通はハッピーエンドで終わるよね」って思わせといて、「実はバッドエンドでした!」的なエピローグを付け足さないと気がすまない。

『君の名は。』以降の新海誠作品しか観てない方のために、わかりやすくジブリ作品に例えて解説したい。

“『天空の城ラピュタ』のシータとパズーは、あの冒険の後により仲良くなって付き合いだし、いつまでも仲良く暮らしましたとさ……と思わせといて、結局は付き合わなかったのかケンカしたのか、パズーはひとり寂しく暮らしましたとさ”──
これが『雲のむこう、約束の場所』という作品。主人公は命がけでヒロインを救ったのに、ヒロインは彼のもとを去ったようだ。

“『耳をすませば』の聖司は約束通り一人前のバイオリン職人となり、雫と結婚して幸せになりましたとさ……と思わせといて、結局雫は他の男性と結婚し、聖司だけがいつまでもひとりで雫の幻影を追い続けましたとさ”──
これが『秒速5センチメートル』という作品。僕はこれを観た翌日、仕事に行けなかった。1週間ぐらいダメージが抜けず、なにも手につかなかった。

雑で乱暴な例えなので、新海誠に一家言ある方には怒られるかもしれない。いや、多分怒られる。

『ラピュタ』や『耳すま』になりそうに思わせといて、最後の最後に梯子を外す。人生はそんなに甘くないということを、残酷なまでに見せつける。そんな“ダーク・ジブリ”な作風だったように思う。本来の新海誠は。

今作『すずめの戸締まり』は、バッドエンドではない。17歳の鈴芽が4歳の鈴芽にかける言葉は希望に溢れているし、鈴芽と草太が再会して「おかえり」のラストも感動的だ。昔の癖で「結局ふたりは結ばれませんでした」的なエピローグを入れたりもしていない。

なのに取れない、この魚の骨。ごはん丸飲みしても取れない。
話は戻るが、それはやっぱり“あの地震”を直截的に描き過ぎているからだ。

「あの地震をモチーフにした架空の災害ではダメだったのか」とも思ったが、それは『君の名は。』と『天気の子』で既にやっていた。

改めて、宗像草太というキャラに思いを巡らせてみる。

新海誠作品には珍しい、“大人男子”の主人公だ。この草太が、災害を封じ込めるための“要石”になってしまうシーンがある。そのヒーロー然とした風貌から、自己犠牲的なセリフを予想した。

「自分の犠牲で日本中の人々を救えるなら、俺は喜んで要石となる!」
とか言ってるバックで、Lisaの『炎』なんかが流れてくる画を予想した。

だが、草太は、真逆の叫びをあげた。

「消えたくない! 死ぬのが怖い! 生きたい! 生きたい! 生きたい!」

これは、実際に被災した方たちの、心の声だと思った。

そりゃそうだ。死の間際にかっこいいセリフを吐ける人間なんて、現実にはそうそういない。ただの“きれいごと”にはしない。人間の弱い部分をあえて見せる。本来の新海誠成分が出ている。

だが、それがいい。“あの地震”を、きれいごとで済まされてたまるか。

僕の中で、あの地震は風化したと思っていた。それが実はまだ全然消化できていなかったと、この映画を観て気づいた。でも、それでいいのだと思う。

風化させてはいけない。忘れてしまってはいけない。
例えば10年後。あるいは20年後。僕はまたこの映画を観る。僕があの地震を忘れていないかを、確認する。

そして、今度はもう寝落ちしない。

++++
(c)2022「すずめの戸締まり」製作委員会
映画「すずめの戸締まり」公式サイト

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この記事を書いた人

ハシマトシヒロのアバター ハシマトシヒロ 武道家ライター

武道家ときどき物書き。硬軟書き惑います。
映画/文学/格闘技