野音は都会の一部でありながらその埒外にあるような、ふしぎな雰囲気をもつライヴ会場だ。冷たい高層ビル群に抱かれながらも温かみがあって、いつの時代も流行におもねることなく、凛とした態度でそこに在りつづけてきた。

そんな野音で毎年ライヴを行っているシオンもまた、流行におもねることなく、今歌われるべき歌を歌いつづけてきたアーティストだ。だからこそ、シオンには野音がよく似合う。野音のぶっきらぼうなコンクリート囲いのステージも、シオンを迎えるときはなんだか嬉しそうに見える。

世間的には福山雅治がカバーした「Sorry Baby」や、コマーシャルソングにもなった「ありがてぇ」といった曲で知られているのだろうが、それだってもうずいぶんまえの話で、今でもそうした枕詞が通用するのかは極めて怪しい。昨今ではメディアにもほとんど顔を出さず、ますます隠者めいてきている。

シオンを知ったのは二十代半ば、郵便局でバイトをしていた頃だった。バンドマンのバイト仲間から教えてもらい聴いたのが「俺の声」。トム・ウェイツが好きだったわたしは、まさに和製ウェイツともいうべきその悲痛で、切実で、だがはかない美しさを湛えるハスキーボイスにたちまち魅せられ、それ以来シオンはわたしの心の一部をごそっとえぐって、そこに居座ることになる。

こうして心の一部と置き換えられたアーティストは、その者にとって特別な存在となる。おそらく誰にでもそういったアーティストがいるはずで、彼らは常にその人の心のなかにあって、たとえ音楽を聴いていないときでも一緒に脈を打ち、息をするようになる。そうやって長い歳月をともに過ごしていく。

だからだろう。シオンのライヴでは、ただ単に“好きな”アーティストのライヴを観たときとはまったくちがうタイプの感情が、内側から湧きだしてくる。ものすごく楽しい大好きな曲なのに、なぜか悲しみがこみ上げてきたり、絶望に彩られた救いようのない曲なのに笑みがこぼれたりする。

ステージ上で歌われている歌のトーンとは関係なく、シオンが今もまだ歌っている、歌ってくれているという事実だけで胸がぎゅっと締めつけられる。

それはきっとシオンの音楽が心のなかに長くありすぎて、もはや心と溶け合っているからではないか。ふだんなら耳から聴いて脳に送られ、心に伝わっていく音楽が、直接体のなかで鳴っている。

だからこそ外で歌われている曲とは関係なく、薄まっていない音がダイレクトに心の奥まったところに突き刺さるのだ。ふつうの音では届かないようなところに。それで愉快な曲なのに妙に痛かったり、暗い曲なのにこそばゆかったりする。自分の知らない、さまざまな感情のボタンをでたらめに押されてしまう。

例年なら夏のまっさかりに開催されるシオンの野音ライヴだが、今年はどういう風の吹き回しか、急激に秋ざれてきた十月に行われた。しかも小雨が間断なく降り注ぐなかで。

それでも客はみんな、カッパを着込んで雨をしのぎながら、あるいは濡れるに任せてびしょびしょになりながら、缶ビールを片手に拳を突き上げ「シオン、ありがとう」と声援を送っていた。心のなかでそれぞれのシオンを鳴らしていた。

そんな人々をまえにしていると、ふだんはそっけなくそびえる高層ビルたちも、この夜だけは半分呆れながら騒がしいロックの音にも目をつぶり、ま、せいぜい楽しんでくれや、と大らかに受け入れてくれているように感じるのである。

 

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