『プロローグ』

美しい言葉なんて、麗しき物語なんて。
どうせ虚ろで無力なものだと思っていた。
――庵財あんざいクロエに出会う、その日までは。

東京都心、田町駅。
レトロ系高級マンション、パレスロゴス最上階。
13階1301号室。
そこが庵財クロエの仕事場であり、私のバイト先だ。
「おはようございます、クロエさん」
「あぁ、おはよう。小松崎クン」
午前十時。男女問わずクン付けで呼ぶ麗しい声に誘われて書斎に一歩踏み入れると、そこはまるで異世界だ。

温かみのあるニスで光る床板。
なぜか壁を覆っているペルシア絨毯。
大きなデスク。小さなノートパソコン。
天地が逆さに書棚に差し込まれた百科事典。
土もないのに繁茂する草が天井いっぱいに垂れ下がっている。

なんたるファンタジー。ため息が出るほど現実離れした部屋の主は、負けず劣らず現実離れした美貌の持ち主だ。
髪は烏の濡れ羽色。陶器の肌に薔薇の唇。デスクの前の玉座リクライニングチェアに座する彼女こそ、この部屋の主であり、麗しき引きこもり作家――庵財クロエ、その人である。
同性ながら目眩がするほどの美しさは、今日も健在だ。
「クロエさん。今日は、玉露とほうじ茶を用意していますよ」
「……小松崎クン」
ゆっくりと、噛みしめるようにクロエさんは私の名前を呼ぶ。
「いまの言葉遣いはいただけないね?」
そうしてクロエさんは麗しく微笑んで告げる。
私は悟る。
ああ、いつものやつだ。いつもの。
「私の言葉、何かおかしかったですか?」
「えぇ。玉露とほうじ茶、という並列はなんともおかしなものだよ。玉露というのは『茶葉の種類』。煎茶に分類されるけれど最大の特徴は栽培方法ね。つまり……」
「つまり?」
「『玉露のほうじ茶』、というのもありえるの。小松崎クンがそのトレーに載った若葉色の液体を指して玉露と呼んだのなら、大いに語弊があるね。この場合、小松崎クンが言うべきは……『緑茶とほうじ茶』。実にシンプルだ」
流れるような説明であった。
この、言葉にこだわる麗人はいつもの調子でニンマリと笑う。
「それはなんと、大変な間違いでしたね。クロエさん」
私もいつもの調子でいつもの台詞を吐く。そうすれば、いつものように「ノン」、とクロエさんは細い人差し指を立てる。
「Trivially, My dear!」

――些細なことだよ、親愛なる助手君。

いつものようにクロエさんの声が涼やかに響き、今日も愛しき瑣末な日常の始まりを告げるのである。

第1話に続く…)

 

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蛙田あめこ

小説書きです。蛙が好き。落語も好き。食べることや映画も好き。WEB小説『女だから、とパーティを追放されたので伝説の魔女と最強タッグを組みました(1)』発売中、「note」や「小説家になろう」でも、連載「スローな落語家と暮らしてる」「庵財クロエの百科事典」