(by 碧月はる

先月、離婚をした。気持ちを新たに新天地での生活を送るべく、引っ越しを決めた。

引越しまでに必要なタスクを紙に書きだし、一つ一つクリアしては印を付ける。そんな日々を過ごしている。離婚に伴う手続きと並行して行わなければならないため、細々とした作業が尽きない。それでも苗字を変えない選択をしたぶん、旧姓に戻す場合よりかは幾分マシなのだろう。

私にとって“名前”は、さほど深い意味を持たない。小学校の授業で「名前の由来」についての作文を発表するというものがあったが、私は親に由来を尋ねもせず、自身で創作して作文を書き上げた。名前に使用されている漢字を辞書で調べ、前向きな意味合いの言葉をそこから引っ張り出し、さもそれらしく親の愛情がかけられたかのような文章を並べた。苗字についてなど、さらにどうだっていい。先祖代々続いている苗字は、兄が引き継ぐ。私には関係のない話だ。

しかし、自身が創作する物語の登場人物の名前は、いつもひどく悩む。意味合い、響き、どの漢字を当てるのか、いっそ平仮名にするか、等々。候補が定まったら、声に出して確かめる。音のリズムを確認して初めて、彼、彼女の名前が決定する。

名前を付けるというのは、命を吹き込む行為であるように思う。しかし個人的には、名前が一切出てこない短編小説もとてもすきだ。彼、彼女、だけで進む世界。名前というわかりやすい判別方法がないぶん、人物描写がよりいっそう丁寧でなければストーリーが浮き上がってこない。そういう作りの物語を読むと、心がいい意味でざわざわする。

小説にはわかりやすい“型”がない。正解も不正解もなく、ただその作品を思うまま味わう。会う合わないは好みの話であり、自身のモチベーションによっても、すきなもの、嫌いなものは驚くほど変化する。

そう考えると、小説は人の感情とよく似ている。わかりやすい正解がなく、あまりにも複雑で、ときにひどく扱いにくい。何を好むかは人それぞれで、趣向は様々なものを取り入れながら意図せずとも移り変わる。

誰かが「素敵」と言ったものが必ずしも自分に合うわけではなく、誰かが「泣けるよ」と言ったところで100%泣ける保証なんてない。小説を読むことと自身の感情を見つめ直すことは、とても近しい行為であるように思う。

書き手の感情が皆無である文章なんて、おそらく存在しない。わかりやすいか、わかりにくいかの差はあれど、奥深くにそっとしまい込まれている感情も含め、それはたしかにそこに存在しているのだ。見えないものが“ない”わけではない。見えづらいものにいかに目を凝らすか。書き手の心情と自身のそれとを無意識のうちに絡めあわせ、静かに音もなく織り上げていく。私にとって小説を読むとは、そういうことだ。途方もなく長く、深く、奥のほうへと伸びていく。静寂に包まれた森に一人迷い込んだかのような、そんな時間。

荷造りをしている最中、一番の天敵は紛れもなく、“小説”である。段ボールに詰め込む際、手に取った瞬間の欲求をどうにか押し留めてさっと箱にしまう。ほんの数ページだけ……そう思って開いてしまえば、そこから数時間は作業が中断してしまう。頭ではわかっている。本を読んでいる場合じゃない。作業が終わらねば、引っ越し前夜に泣きを見るのは自分だ。わかっているのに、見慣れたタイトルと大好きな作家名が私を強く誘惑する。

長編作品の場合、大抵の登場人物に名前が付けられている。固有名詞がないと何が何だかわからないほど伏線が張り巡らされている作品も多々ある。名前もまた様々で、個性豊かなものもあれば、聞きなれた響きの落ち着いたものもある。自分の名前の由来には露ほども興味はないが、小説の登場人物の名前の由来は、是が非でも聞いてみたい。そんな機会は今のところないけれど、憧れの作家さんに会えたら叶えたい夢の一つだ。

離婚前の別居時に要らないものを大量に処分したので、荷物そのものはさほど多くない。しかし本だけは、どうしても捨てられない。“たかが文章”と言われようとも、その“たかが文章”に救われてきた原体験が、今の私に繋がっている。

晴れの日は海岸の砂浜で、曇りの日は河川敷で、雨の日はリビングに無造作に置いた茶色のクッションの上で。いつだって、小説は私の傍で何も言わず、ただ、居てくれた。そんなふうに誰かに寄り添える作品を創る。それは途方もなく地道で、険しくて、やさしくて、尊い時間であろうと思う。

部屋の隅に積まれた段ボール。中身の見えない箱のなかに、たくさんの“わたし”がいる。ガムテープを剥がし、早く本箱の定位置にきれいに並べてあげたい。新しい部屋で、新しい気持ちで。

新居には、玄関の表札は付けない。でもこうして書いている文章の隣にある名前は、案外と気に入っている。散歩中に見かけた桜の枝の先に、薄緑色の新芽がひょっこりと顔を出し始めていた。自分で決めた名前にある季節が、もうすぐ巡る。

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画像 by 碧月はる

 

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