【エッセイ】「自分はこういう人間である」はだいたい錯覚らしい

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部屋が綺麗になった。リビングのソファに積み重なっていた衣類たちは片付けられ、キッチンカウンターは本来の乳白色を取り戻した。ズボラで掃除嫌いの私にとって部屋が綺麗になったことは、娘の入学や第三子の妊娠をしのいで「この春の二大変化」の一つといってみても過言ではなかった。

部屋が綺麗になると心にゆとりを感じる。「そろそろ片付けなければ」という圧迫感がない。掃除など主婦ならば当たり前と思われるだろうが、私は結婚して十年間、それをきちんとこなせなかった。あなたにはあるだろうか、自分の住みかを「恥ずかしい」と思う感覚が。

思えば変化は部屋だけではない。朝、車なり徒歩なりで、小学校に入りたての娘を学校へ送り出している。作り置きテクニックを習得し、食卓に並ぶおかずも一品増えた。

どうしてこんなにも「まとも」なふうになったのか。答えは濁りなくたったひとつ、そしてそれが「この春の二大変化」のもう一方。

それは、生活の中で「書く時間」が減ったからだった。

書かずにはいられない人間だと自負していた。

ライターとして活動する傍ら、noteなどのブログサイトでプライベートな執筆も続けていた。全く数字を気にしなかったといえば嘘になるが、それでもやはり書くことの動機は「反響の大きさ」よりも「自分のための記録」を優先していた。
そんな生活を2年間続けていたにも関わらず、最近は妊娠を機に体力の限界を感じて執筆活動のペースを落としていた。

今も細々と続けているのは自分の好みでもある内省的なエッセイの仕事ばかり。

こうして書くと一見後ろ向きなようだけど、前述したとおり生活はゆとりを増すばかりだ。私は昨日も今日も、そしてきっと明日も、「書くこと」への執着を持たず平気で笑っている。

そこでふと思う。

これまで私が感じていた「書かずにいられなさ」は錯覚だったのだろうか?
自分の作家性を懸命に評価したがる、ただの思い上がりだったのだろうか?
書かずして平気で笑っている私は無意識に何かを「失った」のか?

子供を学校まで送った帰り道。通学路を遡るようになぞる。何人かすれ違った小学生は自身が遅れ気味なことに気づいているようにみな駆け足だった。

朝のひやりとした風を感じながらゆっくりと歩く。ベランダからいつも見ていたその道は、実際に歩いてみると案外道幅が広い。

くどうれいん「うたうおばけ」のあとがきの一節を思い出していた。

“気がつかないだけで、わざわざ額に入れて飾ろうとしないだけで、どんな人の周りにもたくさんのシーンはあるのだと思います。ハッとしたシーンを積み重ねることで、世間や他人から求められる大きな物語に呑み込まれずに、自分の人生の手綱を自分で持ち続けることができるような気がしています。”

インターネットにただよう「大きな物語」のバズり記事に違和感を持っていた私が何度も何度も救われた言葉だ。「大きな物語」の生まれない静かな人生を、私はこの言葉によって肯定され、愛し直したのだった。

頬を斜めに差す柔らかな光が心地よかった。
私の平凡な生活は、平凡なままで続いていく。けれど私はこうして風や光や道幅を通して自分の心に気づくことができる。だからこれからも書いたり、書かなかったりするのだろう。

打ち返す波のようにそれを繰り返して生きていく。それだけは間違いないのだと根拠のない確信がある。

ブログやSNSの更新が滞ってもパソコンの前で「うーん、うーん」と唸る日は全くなくなった。不思議と焦りはない。朝の散歩で抱いた確信が今日も胸の不安を払拭してくれるから、「大きな物語」を生み出すために「書かねば」と焦らなくていい。

変化をおそれない。変化を愛するのだ。そうしていればそのうちいつか、「書かずにはいられない私」がひょっこりと顔を出すだろう。それまで全身で充電をしていよう。例えば作り置き用にきんぴらを作るとか、リビングに脱ぎ捨てられた服を畳むとか。

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画像:絵描きのそざいやさんによる写真ACからの写真

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