【アニメレビュー】『少女終末旅行』の描く、終わるまでは終わらない旅

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終わるまでは終わらないよ
アニメ『少女終末旅行』のエンディングテーマは、こんなセリフから始まる。
黒髪黒目、冷静で横暴で、実は怖がりなチト。
金髪碧眼、食いしん坊で動物的、時々やらかすユーリ。
二人の少女がケッテンクラート(前輪がタイヤで後ろがキャタピラに荷台が乗っかってる乗り物)で「終わった世界」を旅する、これはそんな物語。

ケッテンクラートが走るのは、廃墟ばかりが続く灰色の世界。そこには人どころか生き物自体、チトとユーリ以外見当たらない。聴こえるのは二人の話し声とケッテンクラートの稼働音、あとは風の音くらい。
くわしく説明されることはないけれど、どうやら大きな戦争があってほとんどの生命と文明が死滅してしまった後の、まさしく「終末世界」らしい。他に生き残っている人間がいるのかもわからないし、食料も水も燃料も、あるものを食いつぶしていくだけ。それが尽きたら終わり。イコール死。
冷静に考えて、めちゃめちゃ怖い。発狂したほうが楽なんじゃないかとさえ思う。

そういう環境にあって、チトとユーリは奇妙なほど穏やかだ。
「ランタンつけていい?」「ダメ。給油施設だって次どこにあるかわからないんだぞ」とか、朽ちた戦車を見て「戦車っておいしいかな?」「食べてみれば?」とか、「それってもう“無理”じゃん…」みたいなぞっとする会話を平然と交わす。
そんな二人の普通さに実感させられる。ここが本当に「終わった後の世界」であり、二人にとってはそれが日常なんだということを。

物語が進んでいくとわかるけれど、この世界からは生命どころか科学技術や文化のほとんども失われている。チトとユーリは、音楽のことさえ古い知識としてしか知らないのだ。食事もレーション(携帯食糧)ばかり。それを「チョコ味らしいよ。チョコがなんなのか知らんけど」なんて言いながら食べている。
すでに失われた世界。なくて当たり前の世界。必要最低限のものしかなくて、それすら遠くないうちになくなることがわかっている世界。

そんな世界で、なぜ二人は旅をするんだろう?
生産能力もない世界なので、生き延びるには残された食料が尽きる前に次の拠点を求めて移動し続けるしかないのだけど、チトとユーリの旅にはそんな悲壮さはなくて、「あっち行ってみようよ」という好奇心のほうが強いように見える。

知らない場所へ行っては、二人はささいな出来事に感動する。星空が明るいとか、雨音が音楽みたいに聴こえるとか、砂糖が甘いとか。
そして、何気ない会話の中で「人はなぜ生きるんだろうね」なんて言ったりする。
そんな旅を見ているうちに、自分がだんだん二人に共感していることに気がつく。あんなに絶望的で怖い世界だと思っていたのに、それが自分の今いる居場所と地続きだってことに。

いつ死ぬかわからない。でも必ずいつか死ぬ。
100年後も残るものなんてほとんどない。
記憶も、記録も、その多くは誰にも見つけてもらえず朽ちて消えるだけ。
そんななかで、人ひとりの生きる意味なんてあまりにも些末ごとで、どうでもよくて。
例えば私がこうして書いてる文章だって、100年後どころか2、3年後にはもう読む人は誰もいないかもしれない。
そんなことはわかってるけど、でも書いているし、この先も書いていると思う。
そういうものを、みんな何かしら持ってるんじゃないだろうか。
意味なんかないけど、それでも好きなもの、続けていること、やらずにはいられない何か。
チトとユーリが旅するみたいに。
ほら、全部同じだ。

私もきっと旅をしている。
ケッテンクラートはないけど、足で歩いたり、文章を書いたりすることができる。そうやって、行きたい場所へ行き、会いたい人に会いに行く。
意味なんかなくたっていい。いつか来る終わりまでは、終わりたくないだけだ。

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© つくみず・新潮社/「少女終末旅行」製作委員会
アニメ『少女終末旅行』公式サイト

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この記事を書いた人

音楽メインにエンタメ全般をカバーするライター。rockin'onなどへ寄稿中。個人リンク: note/Twitter