(by 葛西祝

雑誌でよくPOPEYEを読む。去年からおや、と感じたのは、村上春樹のエッセイが始まったことだ。はじめはすこし驚いたが、毎回読むうちに昔から書かれていたみたいに思えていった。毎回持っているTシャツについて書いていて、そのスムーズなテキストが、POPEYEのコンセプトへきれいに収まっているせいかもしれない。

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テキストについてさまざまな形で関わっているならば、嫌でも村上春樹の名前に当たる。編集者が下手なライターに対して「村上春樹の文章を参考にしてほしい」と言うこともあるし、インターネットで書き手の私的な感情や体験を情緒的に書いたテキストが話題になると、「村上春樹みたいだ」と言われることも少なくない。

だけど村上春樹のスタンスやテキストって、本当に実用しやすいものだろうか?私小説に見合う文体だろうか?というのも、自分が村上春樹の小説からエッセイ、対談集に至るまで、著作をひと通り読んだ実感は“実用”とは異なるからだ。

そんな村上春樹の作り上げたテキストは、数あるライフスタイル雑誌でもPOPEYEでエッセイを始めたことにしっくりときていた。

POPEYEはファッション・ライフスタイル誌のなかでも、とくに自意識をベースにしたファッションの個性や、お得な情報をとる浅はかさをすべてノイズとして除去している。一見シンプルに見えて、当たり触りなく見えるライフスタイルの裏には、ブランドものを買い集め、身を包む自意識そのものが格好悪いと見たり、多くをキッチュなのだと切り捨てた過程がある。

そこに村上春樹のスタンスやテキストはきれいに収まっている。村上春樹のテキストやスタイルは、実のところ日本文学における美的とされる部分を、ノイズとして除去してできあがっているからだ。

ジャズやクラシック、ロックを聴き、ランニングや料理を行い、丁寧な生活を重ねていく姿は、早くにノームコア( ※「究極の普通」をコンセプトとするファッションスタイル)を思わせるものがあった。

フィッツジェラルドを敬愛し、リチャード・ブローディガンやカート・ヴォネガットといったアメリカの小説を読み込んだバックグラウンドから、小説を執筆するにあたり、自らの文体を作り直した逸話は示唆に富む。初期の日本語に起こしたテキストを一度英語に翻訳し、さらにもう一度日本語にするプロセスを踏んでいた、というのを読んだ覚えがある。

それは日本語に張り付く情緒を削ぎ落す過程そのものだ。村上春樹が台頭していった80年代から今までに、広告の言葉からインターネットの台頭に至るまで、言語にまつわる環境が変わっていったこともあいまり、かつての日本語にあった情緒や内容は(いずれにせよ)ノイズとして削られていったのだ。

おそらく自分たちが使う日本語は(Ilustralorのベジェ曲線を使ったイラストレーションみたいに)ノイズが除去された、クリアリングされたテキストを「良い」と感じていて、それ以前の情緒に関わる言葉について昔のものだと感じていることだろう。

それがインターネットの私小説のように、自意識をきれいに表現できるテキストと評価されたり、ライターたちのモデルとなるテキストにされたりしている。村上春樹以降に漠然と作り上げられた、クリアリングされた日本語のテキストを、いま多くの人は美的なテキストだと判断している。

そんな村上春樹のフォーマットに、つまらない自意識、浅はかな情緒を込めることは、自分には切り捨てられたはずのキッチュさが戻ってくるみたいな皮肉を感じなくもないのだが。

POPEYEにて村上春樹がくまのTシャツについて書くことから、なにがキッチュで、ノイズとして削られていったかを考える。たとえば自分の感情について記す時、それはもしかしたらキッチュで、自意識が空振りした空虚なものにしかなっていないかもしれないといつも思う。

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(イラスト by 葛西祝

 

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One thought on “【連載/LIFE-】第5回: POPEYEの村上春樹”

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