【武道家シネマ塾】第13回:『麻雀放浪記』~命を懸けて、笑ってみたい~

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僕が48年間生きてきて、わかったことがある。
物事に命を懸けられる人間には、勝てないということだ。

僕がまだ格闘技の選手だった頃、お付き合いしていた女性が格闘技に理解を示してくれなかった。そのことをある先輩に愚痴ったところ、その先輩は、穏やかな口調で僕を諭した。

「だってお前、格闘技に命懸けてないもん。彼氏が命懸けでやってることやったら、反対する彼女なんかおらへんよ」

僕はなにも言い返せなかった。

また別の先輩は、選手時代に退路を断って格闘技に専念する際、
「もしこれでチャンピオンになれなかったら、乞食になって野垂れ死にしてもいいと思ってた」そうだ。

格闘技に命を懸けている人、あるいは命を懸けたことがある人、そういう人の攻撃は、質が違う。痛い。怖い。刺さる。肉体よりも、精神を削られる。心を、折られる。パンチング・マシーンなどで計測した場合、数値化できる攻撃力自体は、一般の選手と変わらないかもしれない。それなのに、なぜその種の人間の攻撃は効くのか。

それは、突き蹴りのひとつひとつに“魂”が乗っているからだと思う。“怨念”と言ってもいい。あまりスピリチュアルなことは言いたくないが、そうだとしか思えない。

命を懸ける際に、いろんな物を捨ててきたのだと思う。お金だったり、人並みの安定だったり、またその安定を望む恋人だったり。そりゃあ、なにも捨ててない人間の攻撃には、魂も怨念も乗らない。

僕自身は、先輩に言われた通り、命を懸けたことはない。だから、とりあえず長いことやってきた“なり”の強さしかない。

命を懸けられる人間に、ずっと劣等感を抱いていた。そして、強烈に憧れていた。格闘技だけではない。どんな分野でもそうだ。

ギャンブルの世界でも、そうだ。

『麻雀放浪記』という、1984年の映画がある。

原作・阿佐田哲也、監督・和田誠、主演・真田広之。終戦直後の東京を舞台に、混沌とした時代に生きる勝負師たちの生きざまを描く。博打に命を賭けるアウトローたちの姿は、眩しいぐらいに輝いている。モノクロなのに。

物語は、真田広之演じる通称“坊や哲”という少年が、賭け麻雀を始めとする博打の世界で、人間として、男として、成長する様を描く。

この坊や哲には、“ドサ健”と“出目徳”という2人の師匠がいる。だがこの世界には、「ボスと手下と敵」しかいない。この2人とも、命を賭けて戦うことになる。この2人の師匠かつライバルが、とんでもなく魅力的だ。

まずドサ健。演じるのは若き日の鹿賀丈史。これがまた、失禁するぐらいかっこいい。賭け金がなくなれば、“家”を賭ける(自分の家ではない。転がり込んでいる彼女の家である)。その家も取られたら、今度は彼女(大竹しのぶ。大変かわいい)を賭ける。

こうやって文章に起こしてしまうと、クズ以外の何者でもない。今ならネットで叩かれそうな気もする。

それでもかっこいいと感じてしまうのは、クズなりに勝負師としての確固たる筋が通っており、決してブレないからだ。

この博打のやり方を、“命を懸けない”人間に諫められた際、ドサ健は言い返す。

「テメーらに出来るのは長生きだけだ。クソたれて我慢して生きてるだけだ」

この「命も懸けられない人間が、俺に意見するんじゃねー!」という、博打打ちとしての強烈な矜持。もはや善悪を超越した、そのかっこよさに憧れる。

若き日の鹿賀丈史自体がかっこいいから……という面も大きいが。

そして出目徳。演じるのは高品格。主に、坊や哲のイカサマの師匠。一見風采の上がらない老人なのだが、何十年も博打で食ってきた“凄み”がある。若い頃にプロボクサーとして東洋チャンピオンにまでなった高品だからこそ、出せる凄みだ。元々“勝負師”だった人間でなければ、この凄みは出せない。

この出目徳は、博打打ちには珍しい妻帯者である。大勝負に出かける際、見送る妻を遠目に眺め、ふと坊や哲にこぼす。

「もう何年も夫婦らしいことはしてねーが……。今日勝って帰ったら、ケツでも触ってやろう」

ここが本当にいいシーンなんだが、やっぱり今ならネットで叩かれそうな気もする。

ただこのセリフは、格闘技漫画の名作『グラップラー刃牙』でも、まんま使われている。

そして、その“大勝負”。坊や哲、ドサ健、出目徳、そして“女衒の達”。この4人の勝負師の対決。

ネタバレだが、命を削るような勝負が長時間続き、老齢の出目徳は本当に力尽きて命を落とす。普通ならここで感傷的な空気になったり、あるいは荘厳な曲が流れて“いい場面”にするところである。だが勝負師の世界に、そんな安っぽいセンチメンタリズムは、ない。

ドサ健は、出目徳のポケットや懐から賭け金の札や財布、指輪、腕時計など金目の物を取り出し、衣服も脱がせて下着一枚にした(原作では全裸)。そしてそれらを、残った3人で分配した。

「オッサンは死んだ。つまり負けたんだ。負けたヤツは裸になるって決まってるんだ」

そして、勝負は続く。

一段落したところで、出目徳の死体を家に帰してやることになる。土手の上から雑に転がして、家の前に放置である(原作ではドブに蹴り込む)。ここまで遺体の尊厳もなにもない扱いをしておきながら、最後にちょっとだけ感傷的になる博打打ちたち。

ドサ健「いい勝負だったな、オッサン。オッサンのことはずっと忘れねえぜ」

女衒の達「アッシもオッサンみたいなバイニン(博打打ち)になって、オッサンみてえに死にますよ」

坊や哲「オッサン……(言葉にならない)」

この作品において、博打打ちたちは本当にいい顔をしている。厳しい勝負師の顔だ。勝負に命を懸けた人間にしか、出来ない顔だ。

だが、主人公である坊や哲だけは、甘い顔をしている。ずっと子供の顔をしている。それが出目徳を弔って(?)、さらに勝負の続き(!)をしに帰る時、坊や哲は笑っている。その笑顔は、それまでの子供っぽい無邪気な笑顔とはまた違う、“怖い”笑顔だった。命を懸ける覚悟を決めた、勝負師の笑顔だった。

そんな顔で笑える人間に、僕はおそらく死ぬまで憧れ続けるのだろう。

++++
(c) 東映
「麻雀放浪記」allcinemaページ

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この記事を書いた人

ハシマトシヒロのアバター ハシマトシヒロ 武道家ライター

武道家ときどき物書き。硬軟書き惑います。
映画/文学/格闘技