(by ハシマトシヒロ)
10代の頃の僕にとって、寺山修司という名前は、自分自身を「文学青年」に見せるための便利なアイテムだった。
女の子と待ち合わせる時は、壁にもたれて『家出のすすめ』などを読んでいた。おしゃれに見えると思ったからだ。
本棚に、寺山修司を並べた。ついでに、中原中也やボードレールやランボーも並べた。かしこそうに見えると思ったからだ。
バイト先で出会った女の子との初デートで、「寺山修司3本立て」を観に行った。かっこよく見えると思ったからだ。ちなみに、文学少女でもなんでもないその子は『ベイブ』を観たいと言ったのだが、ぼくは「寺山」にこだわった。辛そうな顔をして『書を捨てよ、町へ出よう』を観ていたその子は、2本目の『田園に死す』の途中でトイレに立ち、2度と戻って来なかった。そのままバイトも辞めてしまったので、その後の消息は不明である。
本当は寺山修司の本も映画も演劇も、なにひとつ理解していなかった。“中二病的文学青年期”が終わると同時に、寺山本はBOOKOFFの藻屑と消えた。
ただ1冊、『あゝ、荒野』を除いて。
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『あゝ、荒野』。寺山修司が‘66年に発表したボクシング小説。’60年代の新宿を舞台に、たまたま同じジムに入門した新宿新次とバリカン建二の友情と対決を描く。
寺山修司はボクシング・フリークとしても有名で、『あしたのジョー』の主題歌や『力石徹のテーマ』の作詞を手掛け、その力石徹が作中で死亡した時は本当に葬儀を行い、『ボクサー』という映画も撮っている。
この作品も寺山のボクシング愛に溢れている。
「弱き者よ、来たれ! きみを錬えるのは引受けた」
ふたりが入門する「海洋(オーシャン)拳闘クラブ」のチラシの文言が、10代の僕に突き刺さった。
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2017年。
原作の発表から50年余りを経て、突如『あゝ、荒野』が映画化された。「これは絶対観なければ!」と勢い込んだが、前後編併せて5時間強の大作と聞き、心が折れる。
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2022年。
突然観る。さっさと観ておけば良かったと、後悔する。
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こみ上げる映画だ。胸が熱くなる映画だ。胸が痛くなる映画だ。
主人公のひとり、新宿新次を演じる菅田将暉がすばらしい。菅田将暉は、「かわいい顔して凶暴」な役が似合う。今年の大河の義経なんか、まさにその系譜だし。
「戦う男」にこだわった映画を撮り続けた初期の阪本順治は、そういった男たちの魅力を「暴力の色気」と評した。これは本当にセンシティブな表現だし、使い方を誤ると途端に叩かれてしまうだろう。でもあえて、菅田将暉にはこの「暴力の色気」を極めてほしい。
この「暴力性」や、抑えきれない「破壊衝動」があるからこそ、唯一の“友”と呼べるバリカン建二(ヤン・イクチュン)への優しさが、優し過ぎるぐらいにやさしく映る。
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前振り終わり。
この映画は、実はユースケ・サンタマリアを観るための映画だ。
ユースケの役は、海洋拳闘クラブ会長・堀口。常に飄々としており、いつもサングラスをかけている。自分のジムは閉鎖寸前であり、練習生を集めねばならない。
元・半グレでケンカ自慢の新次をとりあえずジムに連れて行き、グローブをはめさせる。「どっからでも殴って来ていいよ」と言いながら、サングラスを外す。露わになった左目は、白く濁っている。戸惑う新次に、
「こっち見えねーんだよ。まー気にすんな」
元来アウトローの新次は、本当に気にせず全力で殴りかかるが、一発も当たらない。逆にボディにカウンターを貰ってのたうち回る。
「引退して18年。そんな俺にパンチひとつ当てられねーのが、今のお前。……やろうぜ、ボクシング」
これは効果的だ。そもそも、自分が強いと思っているようなケンカ屋は、おとなしく言うことは聞かない。だから、まず最初に「こちらの方が強い」ということを、示さねばならない。動物の調教と一緒だ。
それを見て興奮した建二も、サンドバッグを叩きだす。
「お前、いいパンチ持ってんな。床屋なのにな」
素直な建二のことは、ちゃんと褒める。床屋は関係ないが。
正式に入門し、ジムに住み込んで練習しだしたふたりに対して。
「これから大事なこと言うぞ。試合前はオナニーもセックスも禁止。今は体を作ってるから、無期限で禁止」
「……マジ……?」
「おー。だってお前らプロになるんだろ?」
渋々うなずくふたり。
「じゃあ禁止! で、俺はキャバクラ行って来る!」
僕の“理想の大人像”が、ここにあった。
基本飄々としていて、真面目なのかふざけているのかわからないが、決める時はきっちり決める。そしてめっちゃ強いという師匠キャラ。子供の頃に観たジャッキー・チェン映画の赤鼻の師匠も、そんなキャラだった。
そんな堀口にも、好きな女性がいる。東日本大震災の被災者であるその女性・セツ(河井青葉)は、仮設住宅から飛び出した娘を探して、東京に出てきた。
(ちなみに、セツの娘・芳子(木下あかり)は新次の彼女となるのだが、そのことをセツは知らない)
初めてふたりが結ばれた夜、一緒に暮らすことを持ち掛ける堀口に、セツは答える。
「私ね、娘の父親が誰かもわからない女なの。思い当たる人、みんな海に流されちゃった」
堀口は言う。
「だったら、娘さんは海の子だよ。みんなの子で、俺の子だよ」
普段ふざけてばかりの堀口だが、セツの過去も娘もまとめて引き受ける覚悟がある。「大人の男、かくあるべし」と思った。
まさか、ユースケ・サンタマリアに憧れる日が来るとは思っていなかった。
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堀口行きつけの居酒屋がある。セツとはその店で出会った。“新宿新次”と“バリカン建二”というリングネームを付けたのも、その店だ。
居心地の良さそうなその店に、同じくこの映画を観た人たちを集めて、語り合いたい。
「この映画、あのキャラとこのキャラとあの設定とこの設定とあのシーンとこのシーン削ったら、2時間で収まるよね!?」
収まるのである。
堀口とセツのエピソードなんかもいい話なのだが、主役ふたり以外のキャラのバックボーンや恋愛事情まで丁寧に描き過ぎた末の、「5時間」なのである。
原作は、ふたりの主人公以外にも、新宿に巣食う“魑魅魍魎”たちが登場する群像劇だ。自殺防止サークルの大学生たちや、強過ぎる性欲を持ちながらもEDの変態社長……。そんな、いかにも寺山的というかアングラ的というか天井桟敷的なキャラは、普通は映像化する際に弾く。いなくても、ストーリー的に問題ないし。
しかし監督・岸善幸は、そんな魑魅魍魎たちも律義に登場させ、彼らにも結構な尺を使う。
恐らく岸善幸は、原作が、寺山修司が、大好きなんだろう。大好きだから、どのキャラも削れなかったんだろう。
愛は伝わる。十分過ぎるぐらいに伝わる。
たった今、U-NEXTでは未公開シーンを追加した完全版が配信されているとの情報が入った。
もっと長いんか……!!!
こうなったら乗り掛かった舟だ。地獄まで付き合うよ……。
++++
(C)2017『あゝ、荒野』フィルムパートナーズ
『あゝ、荒野』allcinema紹介ページ