【番組レビュー】『クィア・アイ』〜今この世界で、5人が伝えるメッセージ〜

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(by 冬日さつき

外に出ると、なにかと居心地の悪さを意識することがある。人の目を感じ、ジャッジされているよう気がする。あの子は美しい、あの子は不細工、あの子は細い、あの子は太っている、あの子はお洒落、あの子はダサい。ある程度までは自分が勝手に被害妄想で生み出したものかもしれないけれど、それ以外は実際にあるものだろう。

Netflixで新たな第5シーズンが6月に公開された『クィア・アイ』は、アメリカを舞台にファブ5と呼ばれる5人のクィア(性的マイノリティ)*1が、悩みを抱えるターゲットの新たな人生の手助けをする番組だ。

10年くらい前だろうか、ケーブルテレビで『クィア・アイ』が放送されていたのを観ていた。当時はどちらかというと精神的なフォローをするというよりは、それぞれの専門分野で活躍するセンスの良いゲイたちがターゲットの外見やインテリアを変えるというリアリティー・ショーだったように記憶している。今回のNetflixでのリブート版のような「セルフ・ラブ(自分で自分を愛すること)」というメッセージは感じなかったし、ターゲットもヘテロセクシュアル(異性愛者)の男性に限定されていた。

2000年代にテレビで放送されていたオリジナル版『クィア・アイ』と今回のリブート版の根本が大きく違うのは、アメリカが近年多様性に大きな価値を置くようになったことも理由としてあるだろう。そして2016年から始まったトランプ政権により、アメリカ社会の分断はさらに深まっている。リブート版ではターゲットを限定せず、さまざまな境遇にある人びとを取り上げるようになった。

ファブ5が魅力的なのは、もちろん彼らが性的マイノリティであるからではない。だけれど、さまざまな困難を乗り越えてきたのは事実だ。ファッション担当のタンは移民2世としてイギリスで生まれ、経営者としての苦労を知る。美容担当のジョナサンは壮絶ないじめに遭い、ドラッグやセックス中毒、うつ病も経験している。フード・ワイン担当のアントニは両親と疎遠になってしまっているからこそ、家族とのつながりの大切さを説く。カルチャー担当のカラモは父親との10年来の確執を乗り越え、インテリア担当のボブはゲイであることを理由に教会や家庭から追放された過去を持つ。彼らは手助けをしながらときどき自分自身の問題をもさらけ出し、その痛みをもってターゲットたちにやさしく寄り添う。

初めはどこか自信がないターゲットたちが、ファブ5の助言や考え方によって少しずつ変化していく。彼らは良いところをいち早く見つけ、矢継ぎ早に褒めていく。最初にターゲットの家に行き、散らかった部屋や生活習慣を見て「Not for me(自分向けじゃない)」的な表情を浮かべることはあっても、最後まで自分たちの思想を無理やり押し付けたりはしない。化粧を普段しない女性に「素顔も素敵、だけど化粧をする選択肢があることも知ってほしい」とジョナサンは言う。また、別のエピソードでは自信のない、変わる前のターゲットを褒めながら、「でもほかの選択肢を試すことは自信につながる」と続けた。対話を重ねながらターゲットの「変えたくない部分」や「大事にしている部分」は尊重し、「迷っている部分」に選択肢を与える。それが一貫した彼らのやり方だ。今回の第5シーズンではそれらがより強調されていたように思う。

『クィア・アイ』はアメリカを舞台にしたものとは別に、日本でも1シーズン製作されている。個人的なことを言うと、わたしは発表されてから実際に観るまで、どことなく不安な気持ちを抱いていた。心の中でずっと「『クィア・アイ』はアメリカだからこそ成立することなのだ」と思っていたのかもしれない。日本のように、自分に自信を持つことをどこか許さない環境で、どんなふうに番組が作られるのだろうかと想像がつかなかった。

予想に反して番組自体はものすごく丁寧に、かつさまざまな配慮の上で作られており、日本社会に広がる固定された価値観や問題を浮き彫りにした。それでもわたしはその第1話を見て、「どうか自信を持った彼女に、変なアンチコメントがたくさんついたりしませんように」と勝手な心配をした。それは、ファブ5の「自分で自分を愛し、否定しない」という基本的な考え方が、この国にはまだ浸透していないように思えたからだ。

はっきり言って、日本はいま、不寛容な国だと思う。社会の仕組みが個性を認めず、常に誰かが誰かを「ジャッジ」している。「相手にどう見えるか」ということを重視し、謙遜を美徳とする。自分に自信があることを少しでも見せれば、思い上がりだと笑われることもある。さまざまな媒体で発信されるメッセージはルッキズムに偏り、男女問わず、身体的に魅力がある人ばかりがもてはやされる。テレビを見ているだけでも、雑誌を読むだけでも、街を歩くだけでも、簡単に自分の自信を失うことができる。そして、批判と誹謗中傷の区別がつかない人も多く、ひとたびそんな人に「見つかって」しまえば、消えていなくなるまで叩かれることもある。何もかも完璧な人なんて、この世にたった一人もいないというのに。自分の弱さを棚に上げると、だれかを打ちのめすことなんて本当に簡単なことなのかもしれない。

もちろん、アメリカにそのような問題がないわけではないし、実際ターゲットたちの自信のなさも、自らだけが生み出したものではないはずだ。アメリカにも誰かの自信をなくそうとする人たちはたくさんいるだろう。一部だけを比較してどこの国が良い悪いとか、そういうことは語れない。

だけれど、日本でも、アメリカでも、どこにいたとしても、自信を持って自分を愛することができたら、どんなに幸せなことだろう。その上、それを歓迎する世の中で生きることができたら。『クィア・アイ』はそんな世界を作るための第一歩を、人びとに教えているのかもしれない。

誰しもにさまざまなバックグラウンドがあり、葛藤があり、苦しみがある。自分自身をどうしても愛せない人もいるだろう。もちろんそれは間違いではないし、自分だけのせいでもない。それでも、『クィア・アイ』を観て、いろんな考え方の選択肢があることを知るだけでも良い。そして、自分を愛するだけでなく、誰に対しても寛容であるということは、自分自身や、愛する人をもいつか救う。彼らの発信するメッセージは、今のこの世の中にとって、必要なものだ。

*1 ファブ5については、執筆時点でジョナサンは自身をノンバイナリー(自分の性認識が男女という性別のどちらにもはっきりと当てはまらない人、第3の性ともいわれる)だと発言していること、アントニはゲイとラベル分けされることを好まないと発言していることを踏まえて、「ゲイ5人組」とせずこのように表記しました。

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(c) Netflix
Netflix『クィア・アイ』公式ページ

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この記事を書いた人

校閲者、物書き。

新聞社やウェブメディアなどでの校閲の経験を経て、2020年フリーに。小説やエッセイ、ビジネス書、翻訳文など、校閲者として幅広い分野に携わる。「灰かぶり少女のまま」をはじめとした日記やエッセイ、紀行文、短編小説などを電子書籍やウェブメディアで配信中。趣味のひとつは夢を見ること。

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