【エッセイ】外出を自粛するならば好きなだけ眠れると思っていた

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緊急事態宣言が解除され、人々は元の生活を取り戻すのではなく、新しい生活様式を模索するようにのろのろと歩き始めた。遅ればせながら私も丸3か月リモートワークだったその重い腰をようやく上げようとしている。

外出自粛が強く叫ばれていた時、生活でミクロに変化したのは会議のツールでも買い物の方法でもなく、睡眠への意欲だった。というのも私は外出ができないことを逆手にとって毎日泥のように眠ってやろうと企んでいて、それは平日の夜だって例外ではなかった。「明日も仕事で朝早いから」と瞼を無理に閉じる必要がなくなったのだ。

それなのに、あれだけしめしめとほくそ笑んで手にした睡眠のチャンスを私は上手く扱うことができなかった。眠れない。瞼の裏に散る光のような模様をなぞってみたり、暗い部屋の天井のここだと決めた位置をじっと見つめたりしてみても、眠れない。「これからこの国はどんな風に変わっていくんだろう」なんて手に負えない壮大な不安ばかりが頭を駆け巡る。

なかば睡眠を諦めた状態になり、仕方なく上体を起こしぼおっとスマホの液晶を眺めてみる。そこには自粛する人たちを励ますように多岐にわたるコンテンツがあふれ返っていた。私は見知らぬ男女が歌ったり、喋ったり、撮ったり綴ったりしたコンテンツを親指でスワイプしては、どこかに自分と同じように眠れぬ夜の狭間を泳ぐ誰か一人を探した。

「やさしいね」と人に言われた時は決まって目が泳ぐ。

はるか昔、同じような孤独な夜を乗り越えた朝、「昨日眠れなかった」と隣にいた当時のパートナーに話すと「起こしてくれても良かったのに」と言われた。「ううん、起こしそうだったから体を丸くして縮こまってた」と返すと、彼は「やさしいね」と笑って私の前髪に指を通したのだった。

やさしいという言葉は話を完結させる力を持っている。「やさしいね」と言われると、その先に口をついて出ようとしていた「本当は何も言わずとも気づいて起きてほしかった」や「いいねあなたは。いつもすやすや寝られて」という綺麗じゃない本音を自ら喉元に押し込んでしまう。そして目先の「やさしいね」に飛びついて、相手の持つ自分のイメージが上がったことに安堵してしまう。私にとっての「やさしい」は、そんなずるさと引き換えに受け取る言葉だった。

けれど本当はずっと違和感を感じていた。「やさしいね」と言われればそこがまるで結論のように、突然現れるゴールテープのようにたわいもない会話は収拾してしまって、本当の自分はハイあなたの出る幕ではありませんと舞台袖に追いやられる。その物哀しさ。いつも少しだけ胸がきゅっと痛い。

「やさしい」は、あまりに「さみしい」に似てるんじゃないか。

「さみしい人」の私は「やさしい人」になって口角を上げる。本当はきっと目の前の全てに好かれたいさみしい人。

枕に頭を沈めながらそんな昔のことを思い出してしまったのは、あまりに眠れない夜が続いたからだった。

5月下旬、緊急事態は無事解除され、私たちの背中には目を背けかけていた責任が再びのしかかりつつある。日々のタスクに忙殺されるうちに、きっとこの数か月で飛び交った「ベターな未来案」の数々すら薄れていくだろう。

きっと私の夜も早々と閉じてしまう。「明日の仕事が早いからもう寝なきゃ」と焦る自分が目に見えている。時計の針は回転数を増やして生活のスピードを徐々にあげていくだろう。

だから私はそんな未来に抗うように今夜もスマホに手を伸ばしていた。そして向こう側にその人を探していた。たださみしいことをやさしいと誤解され、口をつぐんでいる誰か。ありあまるコンテンツを振り払って、本当の自分について吐露する場所を探している誰かを。

今夜も時の船は私を乗せて闇の先のどこまでも連れていこうとしている。眠れぬ夜を過ごす人はみんな、やさしくてさみしい。

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画像:素材ピクスさんによる写真ACからの写真

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