(by こばやしななこ

燃え殻という奇妙なペンネームの作家を知った時、私はジムでクロストレーナー(名称がわからなかったので「両手両足 一緒に動かす マシーン」と検索した)の上にいた。ジムの備え付けのテレビで、当時まだSMAPだった稲垣吾郎氏がMCをしていた番組『ゴロウ・デラックス』に燃え殻さんがゲスト出演しているのを見たのだった。

燃え殻さんは稲垣氏と同じ歳らしく、互いの年表を比較し、若い頃にクラブで稲垣氏を一度見かけたことがあると話していた。専業作家ではなく、美術の仕事をしている人らしい。

燃え殻さんのことをすっかり忘れた頃に、恋人が一枚の画像を送ってきた。それは、燃え殻さんが『週刊SPA!』に連載している『すべて忘れてしまうから』というエッセイのページだった。恋人は私に「この人の文、すごく面白いよ」と言った。私は「この人、稲垣吾郎と同じ歳なんだよ」と恋人に言った。この話題についての反応はなかった。

それから恋人は毎週、燃え殻さんの連載を共有してくれるようになった。

『すべて忘れてしまうから』には、たいていはすっかり忘れてしまうような思い出やその時のほのかな感情が綴られている。「昔、友だちが○○と言ってた」とか「○○でよく顔を合わせたこんな人がいた」とか、ささやかでどうでもいい、でも本当はすべて忘れてしまいたくなかったはずの話ばかりだ。こうやって色々覚えていられる燃え殻さんが羨ましい。私は過呼吸になるまで笑った友だちとの会話も、仕事中に「どうでもいい話していい?」と後輩の仕事を中断させて話した無駄話も、なに一つ覚えていなくて悲しい。

恋人は「仕事、休職したらしいよ」とか「最近、新大久保のホテルにいるらしいよ」と、ときどき私に燃え殻さんの最新情報を教えてくれる。私は燃え殻さん情報を聞くたびに「この人、稲垣吾郎と同い歳なんだよ」と既に伝えたうえに会話が広がらないことが確定している情報を口にしてしまう。昔言ったことをすっかり忘れていて、口にした瞬間に「これ前も言ったな」と自分で思い出すのだ。

気づけば燃え殻さんのエッセイは書籍化され、手元には恋人が注文した『すべて忘れてしまうから』が届いた。本を手にとった私はまっさきに『男と女は、世界でふたりぼっちだったんじゃないだろうか』という章を探した。

それは燃え殻さんがニュースで見て、ずっと忘れられない事件についての話だ。ある男が素性も知らない女と三〇年以上一緒に暮らした。やがて女が病気になり、男は女を看取った後も死体としばらく暮らした。ふたりが暮らしたアパートが取り壊されることになると、女の死体が発見され、男は姿をくらました。燃え殻さんは、男の心境を想像し心をよせていた。

男と女の三〇年は、長い長いハネムーンのようだと思った。

私と恋人は、六畳一間の古いアパートで七年、一緒に暮らしている。感染症が流行るずっと前から、私たちはふたりとも会社に通わず、平日も休日も昼夜問わずずっと一緒だった。ボロアパートでただひたすら好きな人と暮らす幸せを知っている私は、この話を読むとき、三〇年後の私と恋人の姿、いや三〇年後の恋人の死体と共に暮らす自分の姿を、事件の男に重ねてしまうのだった。

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画像:写真ACからwindy163さんによる写真

 

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