【エッセイ】欅坂46という「燃える青」に出会った日~傷だらけでも生きて行く〜

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(by 安藤エヌ

私が欅坂46というグループに出会ったのは、世間が彼女たちの登場を目にしてどよめき立っていた頃ではなく、それから少し経った後のことだった。
友達から『サイレントマジョリティ―』のMVを見せられ、まず目に飛び込んできたのはセンター・平手友梨奈の表現力だ。意志のともった鋭い瞳が、こちらを見ていた。今時のアイドルはこんな目つきもできるのかと思ったのと同時に、その歌詞にも私は心を奪われた。

「誰かと違うことに
何をためらうのだろう」
「君は君らしく
生きて行く自由があるんだ
大人たちに支配されるな」

衝撃だった。こんな風に音楽を通して青く燃える不屈の意志を歌うグループの存在を今まで知らなかったから、私は欅坂46という、「今」を生きるアイドルたちの歌う言葉に夢中になった。

『月曜日の朝、スカートを切られた』、『エキセントリック』、『不協和音』。

音楽の中で生きている「私」や「僕」は、どこか「自分」や「皆」に似ている。
本当は声を上げたいのに、上げられないもどかしさや、鬱屈する心。大多数の人間とは違う生き方をして、その孤独にあえぐ。ひとりで闘う勇気がなく、群衆の一にまぎれる。

今、この世の中に生きている人たちはひとりひとりが形の違う孤独や苦しみを抱えている。欅坂46の曲は、そんな中で生きる私の、私にしか持っていない孤独にもそっと手を差し伸べてくれた。時に刺さるように、抉るように私の胸の真ん中を通過していく彼女たちの言葉は、私にとって「痛快だった」。自分が世間に対して言えないことを、彼女たちが群青のごとき若さを旗に上げて、威風堂々と叫んでいてくれているように思えた。

なかでも私が衝撃を受けたのは、『黒い羊』という曲だ。
この曲を深夜に聴いた時――今でもはっきりと覚えているのだが――、おそらく時代が違えば尾崎豊の曲を聴いて外に飛び出したくなる若者と同じ衝動を抱いただろう。音楽は、しばしばそういう力を持つ。音楽が、私の背中を思い切り前へと蹴飛ばしたのだ。

「全員が納得するそんな
答えなんかあるものか!」

世間からあぶれても、悪目立ちしてしまうような存在でも、人と違う意見を持っていても、自分が自分らしく生きることを曲げたりするものか。彼女たちはそう歌っていた。

夜中の真っ暗闇に、私の目だけが光っていた。そう、私は『黒い羊』を聴いて、自分の身体が黒いことに気づいたのだ。暗闇の中にまぎれる、昼間は白くなれないたったひとりの羊。それでも私は生きて行きたい。正解も間違いもない、私は私なのだから。

彼女たちの曲はいつも、薄くもやがかかったように見える世界を払拭してくれる。私の見ている世界は、もしかしたらとてつもなく曖昧で、不条理なのかもしれない。そんな場所に生きている自分も、いつしか形の分からないものになってしまう。しかし欅坂46の曲を聴くと、私は次第に自分の形がどんなものだったのかを思い出すのだ。そしてそれは、彼女たちの歌う世界の中に生きている人間と何ら変わらない。学校に行きたくなかった「私」、誰かから指をさされるのを極度におそれていた「僕」、群れの中で生きようとする「自分」。すべてがつながって、私と欅坂46の間には、境界線がなくなる。

同じ、「今」を生きている人間同士になる。
苦しみも葛藤も、すべてを知っている傷だらけの「戦士」になるのだ。

私はこれからも、彼女たちの声を聴いて、言葉を反芻して、この世界を生きて行こうと思う。
たとえそれが痛みを伴うものであっても、大丈夫だ。彼女たちは、何よりも強い。

欅坂46はもうすぐ、その名を改めて新しく生まれ変わり、活動していく。それでも「欅坂46」として戦い続けたその背中は、もはや少女のそれではないのに、あんなにも儚く、美しいことに変わりない。煌びやかで可憐なだけだと思っていたアイドルへの考え方が、鮮やかに覆った瞬間を、忘れない。
その時抱いた感動も、初めて『サイレントマジョリティ―』を聴いた日のことも、きっとずっと青いともしびとして心の中に残り続けるだろう。

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画像:写真ACからacworksさんによる写真

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この記事を書いた人

安藤エヌのアバター 安藤エヌ カルチャーライター

日芸文芸学科卒のカルチャーライター。現在は主に映画のレビューやコラム、エッセイを執筆。推している洋画俳優の魅力を綴った『スクリーンで君が観たい』を連載中。
写真/映画/音楽/漫画/文芸