【推しの一作】『30までにとうるさくて』は決して“女性のためのドラマ”ではない

【推しの一作】『30までにとうるさくて』は決して“女性のためのドラマ”ではない

(by みくりや佐代子

冬模様に変化した街で、ショートブーツのファスナーを上げ切っていない人を二度見た。
一度はバスの車内、一度はデパートの地下の総菜売り場だった。かかとから上へ伸びるファスナーは半端な位置で留まり、足首の部分の黒い皮が外側に開いていた。

それを見つけた時、「あ、私だ」と思った。私と同じだ。その人は抱っこ紐に赤ちゃんを抱えて、上から全体を覆うように大きめの茶系のアウターを羽織っていた。だからその姿はまるでポワンと大きく育った玉ねぎのように見えた。

彼女はおそらく抱っこ紐に赤ちゃんを抱えてから玄関でブーツを履き、ファスナーを上げようと屈んだものの、体勢的にどうにも一番上まで上げ切ることができなかったのだろう。この冬、同じ経験が私にもあった。上がらないファスナーに「もういいや」と諦めをつけて、不格好だなと思いつつ家を出た経験が。

街で見かけた不完全なショートブーツ。仲間意識から、私はその足元をやけに愛おしく思った。歩きやすいスニーカーでなく当日の服装に合わせて黒のブーツを選んだことも、それなのに玄関での奮闘空しくファッションが完成し切らなかったことも、その不完全さが生活そのもののようで愛くるしかった。

いつも、不完全なものに惹かれる。予期せぬタイミングで見える「隙」のようなものに、人間味を感じて嬉しくなる。

玉ねぎのように膨らんだその姿に「お互い大変ですね」と心の中でエールを送って、いつかお互いにきちんと身なりを整えられる余裕ある日々が訪れることを願った。

ドラマ『30までにとうるさくて』。東京で生活する29歳の独身女性たちの物語だ。放送直後から話題沸騰と聞いている。
結婚、出産、ジェンダー、キャリアなど女性ならではの迷いがストーリーの中でクローズアップされている。アラサーと呼ばれる世代には彼女らと共通の葛藤を持つ者も少なくないようだ。

SNSでは、もがきながら生き方を模索する彼女らを見て「リアルだ」という声が溢れていた。
その「リアルさ」を形作る要因の一つが、登場人物らの不完全さにあるのではないかと感じた。

社内でのあるトラブルによりバリキャリの道が閉ざされた遥。選択的シングルマザーとして未婚での出産を目指す恭子。年収2,000万以上の男性と結ばれたくて婚活に励む花音。セクシャルマイノリティの目線で社会への違和感を抱える詩(うた)。

主人公の4人の中に、完全な理想どおりで順風満帆に過ごしている女性はいない。人に騙されたり、嘘がバレたり、不安に涙したり……思うようにいかない、そんな不完全な姿にリアリティが現れている。

私たちはこれまで「普通」を押し付けられて生きてきた。

女性ならこの年齢で結婚するのが普通。結婚すると仕事をセーブするのが普通。育児が始まるとキャリアを諦めるのが普通。
男性もそうかもしれない。男なら体も心も強いのが普通。男なら一家の大黒柱として働きづめになるのが普通、などと身勝手な「普通」に縛られてきたかもしれない。

その誰が決めたか分からない「普通」について、よくよく考えてみてほしい。「普通」を皆が守らなければ崩壊してしまう社会など、なんと脆いことかということを。

つまり、「普通」自体が実に不完全で不確かな基準なのだ。

そう考えると、30をとうに過ぎた自分でもドラマを他人事として見ることができなかった。画面の中に飛び込んで、「いいよ、『30までに』なんて。そんな『普通』は捨てちゃいな」と声を大にして伝えたくなった。主人公の4人にではない。彼女らを取り巻く多くの「そのへんの人々」の目を覚ましてやりたくなったのだった。

松田青子著『自分で名付ける』(集英社)にこんな一節があった。

“大変さを知っている人たちだけがそれぞれのネットワークを形成していて、子どもが生まれてからは、そのネットワークに触れられる機会が増えている。でも、本来、そのネットワークを社会全体で共有できたら、どれだけみんな安心できるだろう。”

この一節は子育てや育児に関するエッセイに含まれたものだが、私はこの「大変さを知っている人たちだけで形成されたネットワーク」という言葉は、さまざまな状況に当てはまると思っている。

例えば先述のドラマの中に出てくる「既婚女性のキャリアの断念」や「若年層の経済不安」(転職前の花音に大量の請求書や督促状が届くシーンがさらっと流れる)、「セクシャルマイノリティの人たちの現状」の問題への対策は、「大変さを知っている人たち」だけで形成されてしまってもいいのだろうか?社会全体で共有されるべきじゃないのか? 

そんなことを考えていると、この『30までにとうるさくて』も決して「女性のためのドラマ」や「若者のためのドラマ」と銘打ってはいけない気がした。このままでは、「あるある」とリアクションするのも当事者として捉えるのも、大変さを知っている人たちばかりになってしまう。本当に届いてほしいのは「そこ」じゃない。我関せずという顔をして生きている人たちにこそ知られてほしいのだ。

多様性が叫ばれる令和の時代、これまでの「普通」などもう機能していないことが、広く認識されてほしいと願っている。ただし悲観することはない。元々この世は、社会は、不完全なものなのだから。不完全なこの世界を受け入れること。それが私たちの一歩目だと信じたい。

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(c) abema
ドラマ『30までにとうるさくて』視聴サイト

 

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