【ぼくが映画に潜るとき】第4回:『トムボーイ』〜「男の子」のふりをして過ごした、あのころのこと〜

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(by チカゼ

小学4年生のとき、ぼくは通っていた体操教室で約半年間、「男の子」のふりをしていた。運動音痴の双子の弟が教室への出席を拒否し始めたことが、そのきっかけだった。

ぼくはそのころ、しょっちゅう男の子に間違われていた。短い髪と、Tシャツに短パン。そういう服装を好むだけの「ただのボーイッシュな女の子」として、それを隠れ蓑にして、生きていた。初潮は始まる前だったけれど、もうそのときには自分が純然たる「女の子」ではないことに気がついていた。

「男の子になりたい」と、切望していた。女の子の体はなんだか窮屈で居心地が悪くて、母が押し付けてくるスカートやワンピースに生理的な嫌悪を催した。死んだってそんなぴらぴらした馬鹿みたいな服なんか着てやるもんかといつだって憤っていたし、仮面ライダークウガの変身ベルトをお願いしたのに、どういうわけだかおジャ魔女どれみのステッキを枕元に置いたサンタクロースさえ呪っていた。

新学期のその日、先生が出欠確認で弟の名前を呼んだときに「はい」と返事をしてしまったのは、単なる間違いだった。もちろん弟とは同じ苗字だから、最後まできちんと聞かずに脊椎反射で答えてしまっただけだったのだ。「あ、まずい」と最初は思った。しかしその次に呼ばれた自分の名前にも返事をしてしまい、訂正のチャンスを逃した。生徒も大勢いたし先生も出席簿しか見ていなかったから、だれにも突っ込まれることなくすぐに準備体操が始まってしまった。

どうしよう、先生にちゃんと言わなければ。跳び箱の列に並びながら逡巡していると、後ろに立っている男の子が急に「ねえ、君ってあの、“ガイジンの男女の双子”だよね?」と話しかけてきた。

「どうやら4年に“ガイジンの男女の双子”がいるらしい」という噂が体操教室内で広まっていたことは、ぼくも知っていた。相貌は平べったいアジア人のそれだけど、白い肌と赤茶の巻毛と珍しい苗字のせいで、ぼくも弟もすぐにその“ガイジンの男女の双子”だと気づかれる。当時は意図しない目立ち方がとても嫌だったから、ぼくはそっけなく「そうだけど」と返事をした。

すると男の子は、「やっぱり! じゃあさ、さっきなんで出欠のとき、お姉ちゃんの分まで返事してたの?」と訊いてきた。

「お姉ちゃん」、と彼はたしかにそう言った。つまり、彼はぼくを“ガイジンの男女の双子”の「男の子」の方だと思い込んでいる。一目見ただけでぼくを「男の子」だと、即座に判断したのだ。

胸の底からじわじわと、えも言われぬ高揚が込み上げてきた。今、ぼくは彼に間違いなく「男の子」として見られている。彼はぼくを「男の子」だと、疑うことなく信じきっている。

「お姉ちゃんはサボりなんだ。叱られたくないからって、代わりに出席の返事を頼まれてる」とぼくは答えた。激しく脈打つ心臓を押さえながら、できる限り平静を装って。彼は無邪気に「へえ、そうなんだ! じゃあ、先生には内緒にしてあげるね」と笑ってくれた。

はじまりは、単なる偶然だった。それこそ、ロールが「ミカエル」と名乗ったときのように。夏休み、家族とともに新しい街に引っ越した10歳のロールは、そこで出会ったリザに「越してきたの?(T’es nouveaux?)」と男性形の形容詞で訊ねられる。つまりロールが「男の子」のふりを始めたきっかけは、リザの勘違いだった。

だからぼくには、ロール──いや、ミカエルの気持ちが手に取るようにわかる。浮き立つ心、生まれて初めて「望む性」を過ごす、その興奮までも。新しい友達たちに見事自分を「男の子」だと信じ込ませることに成功したミカエルは、ますます徹底的に「男の子」として振る舞うようになる。

サッカー中にまだ乳房が膨らんでいない上半身をあらわにし、ワンピースの水着をハサミで切って粘土で模したペニスをその中に仕込む。次第にリザから恋心を向けられるようになり、戸惑いつつもミカエルはそれに応じていく。リザと心の距離を近づけながらも、罪の意識と高鳴る胸の狭間で、ミカエルは常に葛藤を抱え続けることになる。

ぼくを「男の子」と間違えたその子とは、すぐに打ち解けた。出欠確認では決まって隣に座り、ぼくが「お姉ちゃんの代返」をするときは顔を見合わせてくすくす笑う。そして準備運動では、必ずペアを組む。そうしてぼくと彼は、 “親友”になった。レベル別に分けられたチームの中でもひときわ軽々と逆上がりをこなし7段の跳び箱を飛び越えるぼくを、彼はすごいすごいと手を叩き、「女の子の方は運動神経良いのに男の子はからきしだって噂じゃ聞いてたんだけど、逆だったんだね!」と感心してくれた。それが嬉しくて嬉しくて、ぼくはそのままずるずると弟の名を騙り続けた。

いちばん神経を使うのは、教室が終わった瞬間だ。当然のようにぼくと一緒に男子更衣室に向かおうとする彼を「トイレに行きたい」とかなんとか言って、どうにか振り切る。そして彼の目を盗んで、そうっとそうっと女子更衣室に入り込み、手早く着替える。更衣室を出るときには廊下に彼や他のチームメイト──これも偶然、ぼくのチームはぼく以外男子だけだったのだ──がいないか、念入りに確認する。そんな日々を送っていた。

ミカエルはリザを、他の友達を、欺こうとしたわけじゃない。騙して揶揄うために、「男の子」として振る舞ったわけじゃない。ただ「男の子」として生きたかった、扱われたかった。それだけだったのだ。そのことをわかっていたから、妹のジャンヌもまた、ロールがミカエルでいられるように協力する。秘密を守り、友達にも根回しをし、ミカエルの伸びた襟足を「ママに気づかれないように」丁寧に切り揃えるのだ。

しかし、徐々にそれはほころび始める。学校の掲示板に張り出された新学期のクラス分けに、「ミカエル」の名前は当然ながら掲載されない。そのことをリザに問われるが、ミカエルはごにょごにょと苦し紛れの言い訳をする。

そしてついに、その時は来る。ジャンヌをいじめた男子をボコボコにして怪我を負わせたことで、いよいよ母親に秘密がバレてしまう。

「“男の子ごっこ”だったら、心配はしない。でもこれはダメ。もうすぐ夏休みも終わって、学校が始まるのに、どうするの?」

怒りと混乱に陥った母親は、嫌がるミカエルにワンピースを着せ、怪我をさせた男子や騙していたリザの元に連れて行く。強制的に「ロール」にさせたミカエルを、仮面を剥ぎ取った上で他人の眼前に引き摺り出す、あの残忍さ。

ぼくの嘘は、もっとあっけなく、淡白に終わった。サボっていた弟が、ある日突然気まぐれに教室に顔を出したのだ。ぼくが弟の代返をしていたことや弟のサボりが発覚して、すぐさま親に報告が行った。そしてぼくが「男の子」じゃないことも、“親友”の彼とチームのみんなにバレてしまった。

ミカエルのように、糾弾されることはなかった。みんなぽかんとしていて、事態を把握できていなかった気がする。だれにもなにも問い詰められることはなかったが、だれにもなにも話しかけられずその日の教室は終了した。“親友”の彼は、その日隣に座ってはくれなかった。ただ、女子更衣室に入る前、ふと視線を感じて振り返ると、彼と目が合った。

あれは、傷ついた眼だった。特別に仲良しだと思っていた相手に、嘘をつかれていた。中学受験が終わったらいっしょにゲームセンターに行こうねと、約束していたのに。携帯電話を買ってもらったらアドレスを交換しようねと、指切りをしたのに。先に目を逸らしたのは、ぼくだった。今度はぼくがその教室に行くことを拒否し、彼とはそれっきりになった。

ぼくはただ、「ぼく」として生きたかった。これを書いている最中、偶然にも家庭裁判所から戸籍名変更申立を許可する審判の通達が届いた。弟の名前を騙っていたあのときから、19年が経過していた。最初からぼくが「ぼくの名前」を持っていたら、「ぼく」として生きることができていたら、ぼくは彼と今も“親友”のままだったのだろうか。いっしょに酒を飲んで、仕事の愚痴を言い合ういわゆる「幼馴染」になれていたのだろうか。こんなこと、考えたっていまさらなんの意味もないんだけど。でもぼくはきっと、一生あのときの彼の眼を忘れることができない。

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(C)Hold-Up Films & Productions / Lilies Films / Arte France Cinéma 2011
『トムボーイ』映画.comページ

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この記事を書いた人

伊藤チタのアバター 伊藤チタ “ヤケド注意”のライター

エッセイスト。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。古着とヘッセが好き。
映画/小説/漫画/BL