【映画エッセイ】『パワー・オブ・ザ・ドッグ』〜男らしさの犠牲者〜

【映画エッセイ】『パワー・オブ・ザ・ドッグ』〜男らしさの犠牲者〜

(by こばやしななこ

なぜ、彼はああなってしまったのだろう。なぜ周りから愛されないふるまいばかりするのだろう。ドスドスと床を踏み鳴らす祖父の気配を感じながら、息をひそめいつも考えていた。なぜ?と。

両親が離婚してから数年、母と祖父と一緒に暮らした。何年一緒に暮らしても家族だとは思えなかった。一緒に食事をしたことは一度もない。廊下や玄関の電気を点けると、すぐに祖父がやってきて私が点けた電気を全て消してまわった。祖父がよく祖母を殴っていた話を聞いていたから、直接なにかされなくても私はいつも祖父が怖かった。祖父が迫ってくるドスドスドス……という足音が今も耳に蘇ってくる。母が「なんで夜に玄関まで真っ暗にするの」と怒鳴る。祖父が「お前らは家賃や電気代も払わんくせに」と言い返す。母が「ここはお母さんが働いて建てた家だ!お前の家みたいに言うな!」と言い返す。

祖父が亡くなった時、なんの感情もわかなかった。清清もしないが悲しくもなかった。

ただ時々、ふっと考える。祖父は元々あんな人間だったのだろうか。誰か1人でも祖父の目から世界を見ようとしたことがあるだろうか。

商売をする妻の方が稼ぎは良く、祖父は主夫同然の時期もあったという。妻の地元に住み、夫婦ゲンカのたびに自分対妻の親戚一同の構図になる。彼に家長としての立場などなかった。誰からも尊敬されず気遣われない人生。そんなストレスが積りに積もった状態が、私の知っている祖父の姿だったかもしれない。

映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』に登場するフィルという男は、大きな牧場を切り盛りするカリスマ牧場主だ。荒々しく、タフで、威圧的な態度のカウボーイである。弟のジョージは牧場の共同経営者だ。

ジョージが未亡人のローズと結婚することになる。フィルはこの結婚が気に入らない。フィルにとってローズは自分から弟と財産を奪う存在でしかないから。ローズにはピーターという息子がいた。フィルはこの息子も気に入らない。ナヨナヨしているのを隠そうともしないから。フィルは暴力を振るうことこそしないが、ピーターのこともローズのこともイヤミったらしくいじめた。

ローズとジョージが結婚すると、夫婦とフィルの3人は同居し、ピーターは学校の寮に入った。ローズは義兄フィルから日々チクチクと嫁いびりをされ、次第に精神を病んで酒に溺れていった。

観客は思うだろう。「フィルはなんてひどい男だろう」と。しかし映画は中盤からフィルのもっと内側を、他人には絶対に見せない本来の姿を描き出す。フィルは森の奥の秘密基地に誰にも言えないある秘密を隠していた。そこは彼の聖域。そこにいる彼は普段と違い、優雅で繊細で歓びに満ちていた。

フィルの秘密を知った観客は、彼をただ酷い男だとは思えなくなる。誰からも理解されないフィルが切なくなる。彼の威圧的な態度は、本来の自分とは真逆の「マッチョな男らしさ」を演じるフラストレーションからきていたのかもしれない、と。

夏休みになり寮からピーターが帰省すると、物語は一気に加速する。ピーターがフィルの秘密を知ってしまうのだ。そしてフィルとピーターの距離は急激に変化していく……ここから物語がどこに舵を切っていくのかハラハラ観ているうちにあっという間にラストまで転がっていき、最後は物語中に散りばめられた伏線が一気に繋がって終わる。この最後の展開は心にザラつきが残るもので、人によっては永遠に忘れられない一作になるだろう。

『パワー・オブ・ザ・ドッグ』の原作者であるトーマス・サヴェージは1915年生まれのアメリカの作家で、同性愛者だった。彼は同性愛を主題とした自伝的な小説を書いたが、当時の社会では出版できる見込みはなく原稿を海に捨てたという。自分の物語を社会に否定された作者が、フィルという「男らしさ」の呪いに蝕まれたキャラクターをどんな気持ちで書いたかと想像すると胸が張り裂けそうだ。監督のジェーン・カンピオンはサヴェージの想いを丁寧に拾い上げて、フィルの痛みが観客に言語を超えて届くよう映像化している。

『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のタイトルは、旧約聖書から引用されたものだ。映画にも小説にもその一節は登場する。

「わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から救い出してください。」

聖書の中の「犬の力」は人々を苦しめる悪というニュアンスだ。ストーリー内では、具体的なものとして犬の力が登場する。

でも思う。犬の力とは「男らしさ」という概念なのではないか。時代が変わりゆく中でどれほど男性が男らしさから解放されてきただろう?私にはいまだに男性には甲斐性があり、タフで、危険に晒されることが求められているように思える。

フィルがそうだったように、祖父も男らしさの犠牲者だったのではないか。犠牲者の先にまた犠牲者がいて、誰からも許されないまま彼らの人生は終わる。

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(c) Netflix
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』公式サイト

 

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