(by ハシマトシヒロ)
人間のスネの骨は、意外と簡単に折れる。
よくあるパターンは、フルスイングしたローキックが相手の硬い部分(膝だったり、スネ同士だったり)に当たってテコの原理が働き、スネが真ん中で折れてしまうケースだ。初めて見た時は衝撃だった。スネが真ん中で90度に曲がって、膝の下にもう一個、膝関節が生まれたみたいになっていたから。
太い骨が一瞬で折れる時の音は「バキッ」とか「ボキッ」とか、そんなんではない。大きな大きな「パーン!!」という音。トラックのタイヤとかがパンクしたような音。実際にトラックのタイヤがパンクした音を聞いたことはないが、たぶん普通車のタイヤがパンクしてもそんな音はしないと思われる。やっぱり、大きなタイヤがパンクしたような音だ。それぐらい大きな破裂音がする。
しかし人間というのは偉いもので、慣れてしまう。そんな光景にも。生で三回もそんな光景に遭遇してたら。
でもそれが自分のチームメイトなら、また話は別だ。
*
2010年の春、僕は名神高速を軽自動車で爆走していた。
助手席には、椅子をいっぱいに倒してナカジマくん(仮名)が横たわっている。別にナカジマくんが横柄なわけではない。座れないのだ。足を曲げられないから。スネが真ん中で折れているから。
僕は愛知県から大阪まで重症患者を運んでいた。なんでまた遠い愛知県で試合した時に限って、そんな大怪我をするんだ。
その日のナカジマくんは、すこぶる好調だった。蹴りが走っていた。特にローが。
とんとんと決勝まで勝ち上がる。相手は“メガ・インパクト”と呼ばれたK選手だ。アマチュア競技でそんな仰々しい異名が付いているだけで、そもそも別格の選手なわけだが、この日のナカジマくんなら、もしや、と思わされた。
試合開始。ファーストコンタクト。ナカジマくんの走るロー。
パーン!!
破裂音。
ナカジマくんの脚はスネの真ん中で折れ、あらぬ方向を向いていた。
すぐに救急車が呼ばれ、地元の病院へ。僕も付き添いで行く。応急処置として添木で固定され、痛み止めを打ってもらう。愛知の病院に入院するといろいろ不便なので、僕が車で大阪の病院まで運ぶことになった。
道中。ナカジマくんは関係各位に電話をしている。まずは職場。うん。当然連絡しないとね。
「お疲れ様です。ナカジマです。実は今日、格闘技の試合でスネを骨折してしまいまして……。一ヶ月ぐらい入院することになりそうです……。はい! 申し訳ありません! 今後こんなことのないよう、格闘技の試合は今回で最後にします……」
寂しい気持ちで、僕は同い年のナカジマくんの引退宣言を聞いていた。
仕方ないよな。僕たちは、もう若くもない社会人だ。未練がましく試合に出てるけど、これからチャンピオンになるのは難しいだろう。しかも、独身の僕と違ってナカジマくんは妻子持ちだ。これが潮時かもしれないな……。
しんみりしていると、電話の向こうのナカジマくんの上司らしき方の大声が聞こえた。
「なに言うてんねん! お前こんなんで辞めて悔しないんか? ケガ治してリベンジせんかいや!」
僕は猛烈に感動していた。なんていい職場に勤めているんだ、なんていい上司に恵まれているんだ、このナカジマくんは!
僕が一ヶ月も休職してから職場復帰しても、もう席はないだろう。これが人徳の差というものか。
滋賀県に差し掛かった辺りで、ナカジマくんの携帯が鳴った。東孝先生からだった。
僕たちがやっているのは「空道」という格闘技で、東先生は国際空道連盟のいちばん偉い人だ。ナカジマくんや僕は、トップどころではない地方の一選手にすぎない。だけど東先生は、そんな無名の選手のことまで気に掛けてくださる方だった(東先生は、今年逝去されました……)。
東先生からの電話がよほど嬉しかったのか、機嫌よく喋るナカジマくん。
「押忍! つい牽制で、足先だけを走らせるローを蹴ってしまいました! 先生のローみたいに、腰を入れて蹴ってれば折れなかったと思います。現役時代の先生のビデオを観て、練習します!」
電話を切ったあとも「腰を入れたロー……腰を入れたロー……」とブツブツ言ってるナカジマくんに、話しかけてみた。
「なー、ナカジマくん」
「なんだい、ハシマくん」
「“腰を入れたロー”やらなんやら言うてるけど、その足でまた蹴るつもりなん?」
「そりゃ試合出たら蹴るやろ」
「まだ試合出んの!?」
「出るよー、そりゃ。だって“男子”やもん」
「……」
そうやな、“男子”やもんな。強くなるために、試合に出るんやもんな。強くなることを放棄したら、僕たちは“男子”やなくなる。生物学上は“男性”かも知らんけど、“男子”ではなくなる。
僕らみたいなオッサンが未だにガチの試合に出てたら、半笑いで「なにを目指してんの?」とか言われる。ナカジマくんも言われてるやろ? そんな時、僕は曖昧に笑いながらも、「なんでこの人は“強さ”を目指さないんだろう……”男”のくせに」って思ってる。
僕の、いや、“僕ら”みたいな人種の考え方は、間違っているのかもしれない。僕らはチャンピオンにはなれないかもしれないけど、“自分史上最強”ぐらいは、目指してもええやろ? なあ、ナカジマくん。
京都を通過。これまでベロベロ喋ってたナカジマくんが、急に大人しくなった。顔色は真っ青で、脂汗をかいている。
「……麻酔が切れた……」
スネが真っ二つに折れてるのに、よく笑ってんなこの男って思ってたけど、麻酔が効いてたのね。
「……車、揺らさないで……」
「いや無理や!」
「……運転、下手やな……」
「悪かったな!」
「……音楽、うるさい……」
「もう降りろ!」
いや確かにこの時は、銀杏BOYZをおっきめの音で掛けていた。峯田和伸の声は、多分ケガには優しくない。
「でも、大阪までもうちょっとあるで。我慢できるか?」
「……実は、痛み止めもろてんねん……」
「ほな早よ飲めよ!」
「……座薬やねん……」
「……」
お互いに無言、音楽も消したので無音のまま、しばらく走った。
無言無音の中で、僕は考えた。
座薬とは、肛門に挿入する薬である。しかし肛門という気管は本来出口であり、異物を挿入する場合、なにか潤滑油的なものが必要である。あるか? 潤滑油……。潤滑油……潤滑油……潤滑油……潤か……あった……。
チャー〇ーグリーンだ……。
ちょうど僕はチャー〇ーグリーンを持っていた。なんで格闘技の試合にチャー〇ーグリーンを持ってきているのかを、ひとまず説明したい。
僕たちのやっている競技である空道は、安全性を配慮して面を被って行なう。その面というのが、ボクシングのヘッドギアの顔の露出した部分にプラスチックのシールドをはめ込んだような物なのである。この面のおかげで、思いきり殴り合えるだけではなく、ヒジや頭突きも打つことが出来る。そんなありがたい面なのだが、難点がある。プラスチック部分が曇るのである。付属の曇り止めやメガネの曇り止めなど、一通り試してみて、僕は台所洗剤に落ち着いた。そのような経緯を経た上でのチャー〇ーグリーンなのである。
「次のサービスエリアで、俺が入れよか……座薬? チャー〇ーグリーンもあるし……」
「……」
「俺かて嫌やで、なにが悲しゅうて、オッサンの肛門にチャー〇ーグリーン塗らなあかんねん! でも、もうそんなん言うてられへんやん!」
「……ほな、お願い……する……わ……」
屈辱に耐えながら、ナカジマくんはうめいた。
サービスエリアに入る。僕は「早くケツを出せ」と詰め寄る。右手に座薬、左手にチャー〇ーグリーンである。ナカジマくん熟考の末、「やっぱり我慢する……」。こっちが覚悟を決めたのに、なぜそっちが躊躇する。これを二回繰り返し、やっとのことで大阪は京橋の病院に到着した。
すぐさま、キャスター付きのタンカみたいなやつで運ばれていったナカジマくん。おそらく痛みの限界だったと思われるが、きっちり看護師さんに笑顔を振りまいている。
「ああ……ナカジマくんは、かわいい看護師さんに座薬を入れてもらいたかったんだな……」
もろもろ悟った僕に訪れた感情は「嫉妬」だった。驚くことに。
「“かわいい看護師さん”ならいいのに、“いかついオッサン”はダメなのか……!」
感じなくてもいい敗北感を感じながら、僕は帰った。銀杏BOYZを大音量で流しながら。
*
自爆によるスネの骨折は、蹴りのある格闘技ではままあることである。YouTubeで「格闘技 すね骨折」とかで検索したら、ショック映像がたくさん出てくる。免疫のない方は、見ないほうがいい。
自らの蹴りでスネを折った選手は、そのまま引退してしまうケースが多い。
蹴ることが怖くなってしまうのだ。
「威勢のいいことを言ってはいたけど、やっぱりナカジマくんもこのまま引退やろな……」
ナカジマくんには悪いけど、僕はそんなことを考えて、ひとり感傷に浸っていた。
*
2021年、春。
あれから11年たち、47歳になったナカジマくんは、当然のように試合に立っていた。僕はその試合をワイシャツにネクタイを締め、副審として裁いていた。半分以下の年齢の選手を相手に、ナカジマくんはほぼほぼいいところを見せられないまま、試合は終わった。
僕は心を「無」にして、相手選手の勝ちを示す旗を挙げた。
ナカジマくんは、あの骨折からわずか2年で試合に復帰した。「そりゃ治ったんやから出るやろ」ってなノリで。突き指も、スネの完全骨折も、同じ地平で考えているのだろう。その後も今に至るまで、試合に出続けている。
僕は、45歳で一回り以上年下の選手に秒殺されたのを最後に、もう試合には出ていない。
一回りどころか十代の選手にぶっ飛ばされたりもして、それはもう、はた目には「オヤジ狩り」か「家庭内暴力」にしか見えない。辛くなってきて、試合に出なくなった。
一方、ナカジマくんは気にしない。
「生徒に殴られる教師」のような絵になろうが、「逆ギレした新卒社員に蹴られる係長」のような絵になろうが、一向に気にしない。
この試合でも大学生ぐらいの選手に結構殴られていたのに、「負けたけど、久しぶりに“男子の気分”を味わって気持ちよかった」そうだ。Facebookによると。
このまま、五十になっても六十になっても試合に出続けてもらって、「不良学生に体罰を与える校長先生」とか、「営業成績の悪い新入社員にパワハラする代表取締役会長」といった絵を描いて欲しい。
心が折れたオッサンから、心が折れないオッサンへの、自分勝手な気持ちだけど。