【シリーズエッセイ/碧い海に浮かぶ月④】途方もなくきれいで幸福な日々の足音

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(by 碧月はる

──疲れた。

そう思った瞬間、表面張力のようにぎりぎりまで小さく保とうとしていたものが、一気にあふれた。幼子のように途方もなく泣き続け、寝間着にはみすぼらしいシミができ、滴のついた髪の毛が頬にぺたりと張りついた。

「もういやだ」

思わず漏れ出た声は、誰にも拾われることなく夜のなかに溶けた。



文章を書くことを生業としている。思考や体験の欠片を表に出す行為は、ときに思いがけぬ痛みをも連れてくる。正当な批判ならいざ知らず、面白半分で揶揄する言葉を並べられたり、人間性を全否定されたり、「抱えている障害名をブランドにしている」と言われたりもする。

気にしない。それしか術がない現実に、思わずため息が漏れる。揶揄する人たちのほとんどが、誹謗中傷で訴えられない、ぎりぎりのラインを狙ってくる。仮にアウトな内容であったとしても、弁護士に初期費用を払う余裕のない人間は、泣き寝入りをするしかない。嫌なら書くのをやめればいい。そんな言葉を目にするたび、「書くのがいや」なんじゃない、「わけもなく暇つぶしに傷つけられるのがいや」なんだ、と叫びそうになる。

そもそも意味もなく傷つける側が悪いはずなのに、「気にしない」をうまくできない側が未熟だと言われる。しかし、100の応援より1の悪口が気になってしまうのが人の性である。

泣いても何も変わらない。傷つけば相手の思うツボ。そんなのは、言われなくともわかっている。わかっていても、涙は勝手にあふれてくるし、心は勝手にずたずたになるし、強くなりたいと願えば願うほど、強さから遠ざかっていく。私の両手は書くことを切望しているのに、目にした悪辣な言葉たちが要らぬブレーキをかける。そのたびに生じる迷いを無理矢理振り切り、奥歯をぎりぎりと噛みしめながらパソコン画面を睨みつける。そんな夜が、長らく続いていた。



「おかあさん、みて!メダカがいる!」

秋晴れの週末、息子たちと小川が流れる公園に出かけた。次男坊のはしゃぐ声が、晴れ渡る青空に響く。水用のタモのなかで、ぴちぴちと命が跳ねている。

「はやく!おうち!メダカさんのおうち、もってきて!!」

“おうち”という表現がかわいい。水槽でもなく、虫カゴでもなく、おうち。メダカさんの本来のおうちは川の中なのだけど、それは今は措いておく。水を溜めたおうちの中ですいすい泳ぐ様を見てにっこりと笑う次男の顔は、夏の名残でこんがりと色づいている。流れる水面にゆらめく影の長さも、随分と伸びた。

お日さまは元気に地面を照らしていて、風はすっかり秋のそれで、セミの声はやみ、コオロギが鳴いている。その声も、クリスマスツリーが街中を彩る頃には聞こえなくなるのだろう。季節が巡り、そのたびに息子たちは大きくなり、それでも変わらず私に「見て」と言ってくれる。そんな彼らに目を細める私は、随分と年を取った。今年で30代が終わることを、個人的には喜んでいる。年を重ねるほどに、良い意味で強かに緩やかに変化し、驚くほど生きやすくなった。でも、幾つになっても変わらない面もあり、それはそれで私なのだと思う一方、自分の特性にため息が出るのも事実だった。

「ねえ」

水を跳ね散らかして遊ぶ次男を眺めながら、長男に問いかけた。

「嫌なことがあったときって、どうしてる?」
「お母さんに電話してんじゃん」
「うん、そうだけど……それだけで大丈夫になるもの?」
「大丈夫になることもあるし、ならないこともあるよ。でもそれは、しょうがないじゃん」
「しょうがないって思えないこと、ない?」
「あるよ。そういうときは、怒るよ」
「怒るのって、疲れない?」
「嫌なことされたのに怒るの我慢するほうが疲れるよ。なんでお母さんはいっつも我慢しようとするの?怒ればいいじゃん」
「怒りより、悲しい気持ちが大きいことのほうが多くて、悲しんでいるうちに怒るタイミング見失っちゃうんだよね」
「ああ……それはなんか、何となくわかる。でも、後からでも怒っていいんじゃない?時間が経ったら怒っちゃダメなんて決まってないんだから」
「……そうかな」
「そうだよ」

“そうだよ”と言いきった長男は、座っていた芝生の草を手で払いながら私に問うた。

「お母さん、いつも俺たちに言ってんじゃん。自分の気持ちを一番大事にするんだよ、って。大人になったら違うの?」

一拍、考えた。でも、考える前から答えは私のなかにあった。

「ちがく、ない」

ほらね。

そう言いたげな表情で口角を上げた息子の顔は、年々父親に似てきている。かつて深く愛した人。もう二度と愛せない人。でもその人との間に授かった我が子は、私でも父親でもなく、私たちの分身でもなく、しっかりと独立したひとりの“ひと”で、ぼやぼやしているうちに、こんなにも逞しく育っていた。

ふと、西加奈子の小説『さくら』の一節が脳裏をよぎった。物語に登場する3人兄弟の末っ子である妹のミキ。幼い彼女が問いかけた際どい質問に対し、母親は幸福を隠さない表情でこう答える。

お母さんがお父さんのこと好きで、お父さんがお母さんのこと好きで、魔法を出し合った、そのときから、ミキやのよ

〜西加奈子『さくら』

このシーンからあふれているものがあまりにやさしすぎて、昔の私は思わず目を逸らした記憶がある。しかし今は、愛おしさを噛みしめながら直視できるまでになった。私がかつての夫を好きで、彼もまた私のことを好きで、だから二人で魔法を出し合い、そのときから長男は長男で、次男は次男なのだ。そんな二人が今も元気に生きていて、私に「見て」と呼び掛けてくれて、ちょっとした愚痴を言えるまでになって、何なら背丈さえも追い越そうとしている。途方もない、と思う。これを幸福と言わずして、何と呼ぶのだろう。

「ありがとう」
「お母さん、疲れてんの?」
「ちょっと疲れてたけど、元気になった」
「なら、いいけど」
「夕飯、何にしよっか」
「俺は何でもいいけど、ちびは多分『寿司』って言うよ」
「ちびー、夕飯何食べたい?」
「えーとねー、おすし!!」

ほらね。

また、そんな顔で笑う長男と顔を見合わせた。眠れずにめそめそと寝間着を濡らしていた私。こうして息子たちとお日さまの下、笑いあっている私。怒りを押し込めてしまう私。抑えきれずに爆発してしまう私。真っ白な私。真っ黒な私。ぜんぶ私で、ぜんぶ大事な自分の要素で、むやみに嫌いになる必要などないのだと思えた。

もう、いやだ。

そう呟いて泣いた私は、その夜から幾日も経たないうちに、息子たちとのひと時を「書きたい」と思っていた。それに気づいて、やれやれと心のなかで笑った。どうしたって書きたい私は、これからも何度も同じようなことで悩むのだろう。傷ついたり迷ったり恐れたり、そのたびに手を止めて涙を流し、ありもしない正解らしきものを必死に探してしまうのだろう。でも、止まらない。止められない。

目にして打ちのめされた言葉に、脳内ではっきりとNoを告げた。自分が傷つくことは避けられないけど、傷つけてくる人に従ってやる義理はない。私は、怒っている。面白半分で傷つけられたことを、怒っている。そう自覚した途端、不思議なほどバカバカしいと思えた。

「おかあさん、みて!はやく!!」

次男坊が私を呼ぶ。私より早く、長男が腰を上げる。風がさわさわと歌い、赤く色づいたもみじがくるくると踊る。枝が裸になる頃、水面の影はどこまで伸びているだろう。未来を描ける今に頭を垂れ、私は声を張って返事をした。

「いま行くー!」

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画像提供 by 碧月はる

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この記事を書いた人

碧月はるのアバター 碧月はる ライター&エッセイスト

書くことは呼吸をすること。noteにてエッセイ、小説を執筆中。海と珈琲と二人の息子を愛しています。