【映画エッセイ】“ボクたちはみんな大人になれなかった”のだろうか?本当に?

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友人と会うたび、私達はどうしてこうも昔話でいつまでも語り合えるのかと笑ってしまう。

変わった口調のあの先生、エキサイティングな喧嘩を繰り広げる派手なカップル、地元から輩出されたアスリート……。話題が尽きないのではない、限られた同じ話題を繰り返すことに飽きないだけだった。

学生時代という未熟さに価値のある期間を共に過ごした私達は、いくつかの区切りを経て「大人」と呼ばれるようになった。区切りというのは例えば成人式や就職や入籍で、これまでの「大人」が勝手に設けてきた関所のようなものだった。

それらの関所をどうにか避けて通ったとしても「年齢」の壁だけは避けられない。水面をすいすいと踊るように泳ぐ間は楽しいが、年齢という基準によって否応なしに「お遊びはここまで」と引き上げられてしまう。

そんな私が「そうか、自分は大人なのか」と強く自覚する瞬間が、この「古い友人との昔話」の場面だった。なぜなら、友人の口から語られる私は、今の私とは別人のように無鉄砲で、見切り発車で、にもかかわらず相手の態度に従順だった。

例えばこんな話がある。私の通っていた中学では、校則で履き物は白スニーカーのみと決まっていた。「のみ」と言われれば、いかに微妙に「はみだすか」を考えるのがあの頃の子供で、私達は先生に注意されないギリギリの白スニーカーを探し求めた。

「つま先のくぼみに黒のラインが入っているスニーカーはセーフだった」と友人から聞いた私は、ならばこれもいけるんじゃないかととあるスポーツメーカーの白スニーカーを履いていった。サイドとソールに申し訳程度に黒のラインが入っているスニーカーだ。

ある日、学年主任の女の体育教師がそれを見て「これは白スニーカーとは言わない」と指摘した。
「いいえ、これは白スニーカーです」と言い張れる勇気がなかった。白スニーカーの定義は教師の手の中にあったから。

私は、親に見つからないように自室に篭ってスニーカーの黒いラインを修正液ペンで塗りつぶした。親に見つかれば「モノを大事にしなさい」と叱られるのが目に見えていたのでコソコソと行った。
ペンを振り、白いインクで塗り潰しながら、「脱出してやる」と思った。早く脱出してやる。「子供」を。

私達は子供のうちから、大人には「すごい大人」と「普通の大人」がいることを学んでいく。
本や音楽で有名な「すごい大人」は、雑誌やテレビに出ている。近所の駄菓子屋のおばちゃんや犬を散歩させているおじちゃんは、出ていない。

やがて「16歳のシンガーソングライター、衝撃デビュー」や「現役大学生が芥川賞受賞」、「最年少でオリンピック出場」などのニュースを見て、なるほど、「すごい大人」の正体は「すごい子供」なのだと知る。

「すごい子供」は「すごい大人」になる確約がなされている。最年少や初ノミネートなどの言葉が並ぶたび、「普通の子供」だった私の自尊心は少しずつ確実に削られていった。自分は特別ではないということを徐々に自覚する訓練みたいだった。

「すごい子供」はきっと、先生に怒られることを案じてスニーカーに修正ペンを突き立てたりはしないのだ。翌日も堂々と同じ靴を履くのだ。
協調と抑圧に慣れていた「子供」の私が学校に通った13年間。自分の行く末が「すごい大人」ではないことを知るには充分な時間だった。

2021年11月、「ボクたちはみんな大人になれなかった」を観た。この冬Netflixで公開された映画だ。原作の同名小説は発売されるや即重版がかかったと言われている。

主人公・佐藤誠の過去を遡りながら、今の自分に影響を与えた人や言葉を思い出し、物語に重ね合わせていく。その過程で、「脱出してやる」と決意したあの日のことを思い出した。行動とは裏腹に静かな反抗心を抱いていたあの日。私がまだ「大人」ではなかった頃。

結局、私を脱出させたのは「年齢」という最もありふれたものだった。
私は「すごい大人」になることはなく、「普通の大人」になることにさえ年齢に頼るしかなかったのだ。

映画の中で現れた、「普通」を嫌がる若い女性・かおり。普通を嫌がることがどれだけ普通のことなのか彼女はまだ知らずにいた。そしてそれに気づいた時、かおりは一足先に大人になったのだろう。街角に主人公の誠を置いて。
誠は数々の変化に順応し、受け入れ、ただ心のどこかでは疑問を持ち続けたまま、「普通の大人」のギリギリ手前で足踏みを続けている。

「キミは大丈夫だよ、おもしろいもん」

かおりから受け取った言葉は、誠がこれから“大人になってしまっても”あるいは“とっくに大人であることを自覚してしまっても”、彼の人生を丸ごと肯定するだろう。

ラストシーンを観て考える。果たして“ボクたちはみんな大人になれなかった”のだろうか?本当に?
私達は確かに「すごい大人」にはなれなかった。けれども皆、「普通の大人」になることが、自分を傷つけることと同義ではないと既に気づいているはずだ。

今私は、「普通の大人」として日常を紡いでいる。過去を回顧しながらも日常を全うしている。何かを恐れることはもう無い。白スニーカーの何たるかを人に定められたり、自室での行動に眉をひそめられたり、そういう「大人」のジャッジに振り回されることはもう無い。

「子供」はいつも「恐れ」と隣り合わせだった。私達は解放されるべきだった。そのために手に取った「普通の大人」という選択を私は否定したくない。映画が終わる頃には、そんな言い訳や足搔きすら愛おしいと思えるようになっていた。

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(C)2021 C&Iエンタテインメント
映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』公式サイト

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