【エッセイ】もしこの世界に、たった一人に刺さる文章が存在するとしたら。

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(by すなくじら

先月から転職をして、本格的に文章を書く仕事に就いている。まあ、わたしの近況は一旦置いておくとして、今日は日常の中で、ちょっとまだ心の中でまだ渦巻いている、気になった話をしたい。

わたしは、いわゆるSEOライターと呼ばれる仕事に就いている。SEOライターとは、キーワードに基づいて、 ユーザーが知りたいと思う情報を提供するための物書き。つまり、もちろん物を書く仕事だけれど、エッセイや趣味のコラムと違って、好きなことを好きなように書ける仕事ではない。Google先生のご機嫌を伺いながら、 少しでも多くの人に見てもらった証としてテーマに沿って数字を残すことが求められる。

そして、事が起こったのは先日。わたしと同じタイミングで最近仕事をはじめたばかりの同期の何気ない一言が、我がチームに一石を投じた。

「わたしは大勢の人に見られて1位の記事になるよりも、たった1人の誰かに刺さる記事を書きたいんです」

彼女が掲げたのは“数字よりも心”という大正義だった。そしてこの言葉を皮切りに、少し空気の澱んだセミナールームで、議論がはじまる。

わたし個人の意見としては、同期の意見も分からなくはないが、どちらかというとマーケティング寄りのSEOライターにその発想は不必要で、家に帰ってから小説でもエッセイでも何なりと書けばいいと思った。大は小を兼ねるとも言うし、検索結果で1位を取れるような凄腕の文章力を持つライターなら、1人にだけ深く刺さるような記事だって書けると考えたのも理由のひとつだ。もちろん、誰かの心の琴線に触れるような文章をわたしだって書きたい。しかしそれは、あくまで文章の采配権が自分に委ねられているか、それを許されたときに限る。

結果として、「読み手の求めていることを考えながら相手の立場に立って文章を書く意味では、どちらも目指す場所は変わらないよね」という方向性で話はまとまりを見せたのだが、わたしはそのときチームのリーダーが発言した言葉を忘れられない。

「そもそも、たった1人に刺さる文章ってある?」

しばらく意味を考えて、ハッとした。

世の中のたった1人に刺さる文章なんて、よく考えると始めから存在しないのだ。

1人に刺さったように感じさせるような文章は山ほどある。あなたとわたしだけの共通言語であるように思わせるような、甘美な秘密を匂わせる、それでいてトランプタワーの如く緻密に計算された文章。それでも、その文章を読んで「自分だけが呼びかけられている」と感じる読み手は必ず複数いるものだ。変わり者と自分を認知している、または認知して欲しいと願う普通の人は世の中にたくさんいるんだってば、とリーダーに目で訴えられ ているような気がした。

そしてそれは、この世の真理でもある。今流行りの「花束みたいな恋をした」でも世間一般に売れているものが嫌いで、マイナーなものが好きな自分たちに陶酔するカップルの姿が描かれているように、物と情報が溢れかえっている今日この頃、数の多さにひっくり返ったり散乱したりするアイテムの中から“なにを手に取り、周りに置くか”がブランディングの鍵となっていることをまざまざと突きつけられた瞬間だった。

わたしの会社が担当しているのは新卒就活分野のWebサイトの制作だ。つまり、ユーザーは就活生。その点を踏 まえて「就活生の求めている情報ってみんなだいたい一緒じゃない?」「1人に刺さる系の文章で刺さるユー ザーって最初から就活しなくない?」との方向に傾いた時にまた胸がちくりしとしたのは、自分の就活を思い出したからだった。

2年前の就活。スーツ姿で並ぶ就活生たちの中で、わたしはなんとも幼稚で心と身体がチグハグになっていた。 死ぬほど就活をしたくなかった。大学を卒業したら文章を好きなように書いて、ささやかなお金でギリギリでもいいから、自由に生きたかった。リクルートスーツを着ているくせに、身だしなみ的には絶対アウトなスーパー ロングのエクステをつけて、カラーコンタクトの向こう側で腕を組む面接官を睨めつけていた。

集団討論では半ば喧嘩になるし、短所は協調性のなさとか言っちゃうイタイ就活生。今、【内定を掴むための秘訣5選!】に近い文章を書くようになって改めて思うのは、当時のわたしのような学生に内定が出るはずがない。否、今でなくても、学生時代も本当はわかっていた。こめかみから流れる汗が首の後ろあたりで、やるせない気持ちとぐちゃぐちゃになった8月。あの夏を過ぎて、友達が次々に内定後インターンに呼ばれはじめてもわたし就活は終わらず、いつの間にか頬を撫でたのは冬の始まりの冷たさをずっしりと含んだ夜風だった。

ビシッと画一的で没個性、と馬鹿にしていたくせにスーツを着て就活に参加した自分。レールから外れる勇気が なかった自分。わたしは、わたしだけは、他の就活生とは違うと大人にわかって欲しかった。でも就活はわたしのエゴを満たす場ではないし、どう考えてもそれがお門違いであることに気がつくべきだった。就活は、ある意味で個を捨てて社会に適応する覚悟を持った人たちが集う場所。個を持っていても、個を無かったことにできる勇気を持っている人がいる場所。それでも「たった1人に刺さる(ように見える)文章」に出逢えていたら、世の中に何人もいる、普通のくせに自意識過剰な過去のわたしは救われていたのだろうか。目の前のパソコンの画面に窮屈そうに光る文字の羅列を見つめながら、考える。

今日もわたしは文章をかく。言葉を話せるようになったことで人間は、相手のとコミュニケーションを円滑に測れるようになった。そして何より、便宜的な言葉の箱に無理やり収まらない気持ちや汲み取っててほしい想いを救済するのもまた別の言葉の役割なのだ。どん底の暗闇を照らすスポットライトにはなれなくても、暗がりの信号機から零れ落ちた光の欠片にそっと寄り添う文章を書けるような書き手に、わたしはなりたい。

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画像:cheetahさんによる写真ACからの写真

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この記事を書いた人

本や映画のコラムを書きながら、日々の生きづらさをエッセイに昇華しています。Twitternoteも。