【エッセイ】会いたい人に会うように、会いたい記憶に触れるように、私は海へいく

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(by 碧月はる

海の傍でなければならない。そう、固く決めていた。大切な思い出のほとんどは、海と共にある。故郷の思い出は少ないが、海の色だけは鮮明に覚えている。紺碧の海は、今もまだあの色を失わずにいるだろうか。

先月、引っ越しをした。兼ねてから協議中だった離婚が無事に終結し、それに伴っての転居だった。離婚を機に生活の拠点を移す。それはおそらくそんなに珍しいものでもない。そのへんによくある風景みたいにあちこちに転がっていて、それなのに想像以上に痛みは深くて、じわじわと浸食する傷口に効きそうな薬はどうやら時間以外になさそうだった。

物件の下見で不動産屋を訪れたとき、第一希望のアパートは定職を持っていないというだけで審査の対象外だった。無職の人間は預貯金が300万円ないと借りられない物件なのだと聞き、苦笑いで返すほかなかった。そんな貯金があったなら、どんなにか安心だろう。海から徒歩圏内にあったその物件を諦め、閑静な住宅街のアパートへの入居が決まった。しかしそこも、車でなら数分で海に着く立地であった。

「海の傍がいいんです」

頑なにそう繰り返す私に、不動産の担当者である同年代と思しき男性は、「サーフィンとかされるんですか?」とごく自然に尋ねてきた。私は首を振って、短く答えた。

「海が、すきなんです」

引っ越しは思ったよりも呆気なかった。一人ぶんの荷物は大した量ではなく、疲弊したのはむしろ心のほうで、身体の負担はそれほどでもなかった。あっという間に荷ほどきを終え、整えた部屋をぐるりと眺めてほっと溜息を吐いた。新しい土地。新しい家。安心できる巣穴に安堵したためか、それまでの疲れが出たのか、引っ越し当日の夜は泥のように眠った。

翌朝、5時に目覚めた。小窓から入ってくる色は朝というより夜に近く、仄暗い空気がひっそりと満ちている気配がする。布団のなかでスマホをいじり、日の出時刻を調べた。6時20分と表示された数字を見ながら、まだかすかに残る眠気と直感的な欲求とを天秤にかけ、大して迷いもせずに後者を選んだ。いつだってそうだ。迷うフリをしながら、最初の段階で大抵は答えを決めている。

近所迷惑にならないよう、そうっと玄関の扉を閉める。早朝の空気はぴんと張りつめていて、鼻の頭がひりっと痛んだ。両の手をこすり合わせ、はぁ、と息を吹きかける。吐き出された二酸化炭素が、目の前を白く染める。

慣れない道の運転はあまり得意じゃない。Googleナビを頼りに、家からほど近い海岸線へと向かう。時間帯のおかげで車はほとんど見当たらず、後続車に急かされることもなく目的地に辿り着いた。

車から降りた途端、潮の香りがした。波の音がする。剥き出しの岩肌に当たって砕ける波が、お腹の底にずっしりと響いてくる。以前住んでいた土地の海より、野性味が強い。うっすらと明るくなってきた空から、朝の匂いがする。群青色の空と水平線の橙色の境目が、淡く霞んでぼやけている。朝陽は毎日昇るし、海も変わらずいつだって其処にあるのに、当たり前に繰り返されるその儀式にこんなにも胸を打たれるのはどうしてだろう。明日の同じ時間に此処に来れば、同じ光景が見られる。そうわかっていながらも、今目にしているこの色と音は、今しかないのだという想いに駆られた。届かない切なさを抱えながら、それでも焦がれるのをやめられない。それはまるで、叶わない恋みたいだった。

薄明の空に細くたなびく莢雲が浮かんでいる。群青色から薄水色へ変化した空を、水鳥たちが群れをなして高く高く舞う。水平線からゆっくりと顔を出す太陽は、強く温かな光をたたえて世界の隅々を照らし始めた。新しい土地で迎える、初めての朝。それはあまりにもきれいで、荘厳で、身体のなかからひたひたと満ちていくような心地がした。

すっかり明けた夜が、向こう側に消えていく。高く昇る太陽が、空と海の青に光を注いでいる。丸くてすべすべした石が無数に転がる浜の上を裸足で歩いた。痛みを感じながらも、余計なものが足裏から流れ出ていくのをたしかに感じていた。石に紛れていたシーグラスを見つけ、思わず写真を撮った。陽に照らすと美しく輝く硝子玉は、ざらざらとした表面の奥に海の色を写し込み、まるで宝石のようだ。小さな白い一粒を眺めながら、金子みすゞの詩を思い出していた。

“浜辺の石は偉い石
みんなして海をかかえてる”
『浜の石』金子みすゞ作。

この一つ一つが海の土台になっているのだ。波も、岩も、石も、土も、どれもが揃って海になる。

渡り鳥のようにあちこちを彷徨って生きてきた。海の傍でなければならない。たったそれだけの拘りを貫けたことを、しあわせに想う。潮の香りを吸い込むだけで、心が凪いでいく。海には、いつだって隣に居てくれた人の面影が色濃く残っている。会いたい人に会うように、会いたい記憶に触れるように、私は海へいく。

願わくば、この土地で永らく穏やかに暮らせますように。

いるのかいないのかわからない海の神さまに、静かにそう祈った。

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画像 by 碧月はる

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この記事を書いた人

碧月はるのアバター 碧月はる ライター&エッセイスト

書くことは呼吸をすること。noteにてエッセイ、小説を執筆中。海と珈琲と二人の息子を愛しています。