【エッセイ】シュレーディンガーの彼

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(by こばやしななこ

トイレのドアを開けるとき「中に誰か入っているかも」という思いが頭をよぎる。「同居人が入っているかも」という意味ではない。「知らない誰かが、そこに隠れているかも」という意味だ。

トイレだけじゃない。

窓の外を見るときにはベランダに誰かいるんじゃないかと思うし、玄関のドアを開けるときにはドアの後ろに誰かいたらどうしようかと思う。朝起きると、寝室以外の部屋に誰かがいる気がする。毎朝おそるおそる寝室を出て、家に知らない人は誰もいないことを確認しなければいけない。

今まで知らない人が家に勝手に入ってきたことは1度もない。実際に怖い思いをしたことがないのにもかかわらず、「今日こそは誰かいるかもしれない」と考えてしまう。

ほんの4、5歳のころから、誰かがいる感覚はあった。

そのころ、寝ようとして横になると枕にピタッとつけた耳の下からトコトコ、トコトコ、と人の足音が聞こえた。音は住んでいるマンションの下の階ではなく、もっと近いところでしている。迫ってくるようで極端に大きくはならず、遠ざかることもなく一定のリズムを刻み続けた。それは、うちと下の階の隙間にいる人の足音だった。灰色のコートを着た男である。足音を聞きながら目を閉じると、彼の歩く後ろ姿が見えた。顔を見たことはない。

もう少し成長して、引っ越しをしてから足音は自分の脈の音だと気づいた。

10代になると、一軒家の1階、玄関のすぐ隣が私の部屋になった。夜は大きな窓にそって置かれたベッドで寝た。雨の日に寝ていると、窓のすぐ上についているひさしから雨が滴り落ちる音が人の足音に聞こえた。雨の音であることは分かっていたが、雨音に足音が紛れるのをいいことに本当に誰か来るんじゃないかという妄想に怯えた。

うちは窓も玄関の戸も「ねじ締り錠」と呼ばれる1本の細いねじで引き戸を固定するタイプの鍵で、それがとても心細かった。誰かが侵入したなら窓からだろうが玄関からだろうが私の部屋に行き着くだろう。この部屋と接した隣の部屋には、誰もいない。窓から入ってきた誰かに私がさらわれても、家にいる者は気付かないかも。そんなことを考えて、雨の日は眠れなかった。

ねじ締り錠は外側から開けるのが難しく、むしろ侵入者はピッキングしやすそうな台所のお勝手から入ってくる可能性の方が高いはずなのだが、私は彼が窓か玄関から来ると信じて疑わなかった。

「シュレーディンガーの猫」という言葉がある。箱の中に猫1匹とアレコレを入れてある実験をする時、量子力学の理論上は箱の中で生きている猫と死んでいる猫が同時に存在することになる。しかし、生きている状態と死んでいる状態が重なり合うことは現実にはありえず、箱を開ければ猫は生きているか死んでいるかのどちらかだという量子力学の矛盾点をついた科学用語である。

私がトイレや玄関のドアを開ける前、ドアの向こう側に彼(いつも男なのは、明らかなジェンダーバイアスだと思う)がいる状況といない状況が重なりあっている感覚がある。「いるかもしれないし、いないかもしれない」ではない。確実に彼はいる。しかし、ドアを開けて彼がいたことはない。私からしたらそこに矛盾はない。

そこにいる彼を追い払うには、ドアを開けるしかない。彼と鉢合わせる恐怖をグッと飲み込んで、ドアを開けるしかないのだ。

ここまで毎日うちに来る「彼」について考えているのは、本当のところそいつを待っているからではないかとも思えてくる。このままでは私は、ある日トイレのドアを開けて男がいても「やっと会えたね」と口にしてしまいかねない。

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画像:写真ACからへいなんさんによる写真

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この記事を書いた人

こばやしななこのアバター こばやしななこ サブカル好きライター

サブカル好きのミーハーなライター。恥の多い人生を送っている。個人リンク: note/Twitter