【お笑いエッセイ】さらば青春の光~危なげなコントに見るリアリティの正体~

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火事の現場。正義感の強い男、柏木が必死に怪我人を救出する。

その姿に胸を打たれ、救出活動に加わる別の男。「しかしなんでこんなことになったんですかね?」「火の不始末ですよ!」「一体誰の部屋から……」「僕です!」柏木は真剣なまなざしで叫ぶ。「僕の寝タバコです!」。

さらば青春の光のコント「ヒーロー」の一節だ。火事の犯人が、大真面目にヒーローのスタンスで人を助けていく違和感。しかもその救出活動も他人の命のためでなく、死人を出さないことで自分の罪を軽くするためという不誠実さがおかしみを誘う。

さらば青春の光という芸人はコントを得意としている。ネタを書いている森田哲矢と、冒頭の柏木役でもあった東ブクロの二人で構成されている。彼らのコントにはクズ要素、エロ要素などアウトローな世界観のものが多い。幅広いネタ数の中でスタンダードなのは「サイコパスな東ブクロに振り回される森田」という設定。東ブクロが顔色一つ変えず演じるキャラクターの目に見えない奇妙さに、「常識側」に立つ森田が巻き込まれて戸惑う姿を観客は楽しむ。

ネタの面白さもさることながら、彼らの強みは「顔」、つまりルックスが大きい。それは女性ファンが多くつくような若手イケメンコンビという意味ではなく、それぞれのキャラクターにぴったりと合う顔を持っているのだ。

森田であれば、やられ役の似合う「顔」。歯が出ていて背が低く、洗練されていないという絶妙なバランスがアドバンテージとなり、慌てたり困ったり情けなくしている姿がとても合う。東ブクロの顔も同様で、「常識外れなのはこっちなのに何も悪びれていない」という状況によく合うルックスなのだ。そう言った意味で彼らのコントは配役が重要になっている。面白いネタの数々も、もしも配役が逆だったらルックスにぴたりとハマらないだろう。

「憑依型」という言葉がある。パフォーマンスになると普段の姿からがらりと変わり別人のようになる様子を、称賛する意味で用いる言葉だ。

しかし彼らはそれとは真反対――まるでコントの世界を飛び出しても森田は森田、戸惑いや焦り顔の似合う人間で、東ブクロは普段からも何を考えているか分からない人間であるように見える。その「創作(コント)とリアルの人物像が乖離していないこと」こそが、彼らの魅力だと感じている。

となると弊害も出てくる。もしも彼らの実生活が充実していることが垣間見えてしまうと、途端にコントの面白みがすり減ってしまうのだ。

私たちは奇妙な世界に巻き込まれて戸惑っている森田が見たい。それなのに森田が実生活で多くのお金を稼いで、女の子にもモテまくっていたらどうだろうか。間違いなく、冷める。同様に、平気でクズな人間性を晒す飄々とした東ブクロが見たい。もしも彼が本当は心が綺麗で朗らかな青年だったら、コントの中に見る飄々としたイメージが裏切られてしまう。

つまり、これからも彼らは「売れていない風」を装わないといけない。戸惑い、嘆き、泥臭さを漂わせることをやめてしまうとコントの魅力が半減してしまうのだ。たとえそれが虚像であっても。(実際彼らは個人事務所なので、メディアへの露出の量を考えるときっと私たちの想像以上にずっと稼いでいるはずなのだけど。)私たちが求めるのはいつだって、不条理な状況下で満たされていない少し卑怯者な彼らの姿なのだろう。

2019年のM-1グランプリではこれまでにない新しいお笑い像、「傷つけないお笑い」が評価された。そんな好感度や誠実さが重視される時代に、「汚れていないと価値をなくす」彼らは珍しい存在といえる。

どうかこれからも善人など目指さず、その宝のような「顔」をもってしてきわどい笑いを追求し続けていってほしい。青春の光が降り注ぐフレッシュな芸人たちの隣で、「人間の厭な笑い」を見たがるマイノリティな私たちを刺してほしいのだ。

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