(by 矢御あやせ)
2013年、東京に絶望しきって茨城に都落ちした時、真昼間のテレビから野球が流れていた。
その当時は野球に興味なんてなかった。テレビを眺めていたら広島カープが勝っていた。当時、たまたまアメトーークの広島カープ芸人を見ていたので、カープが「五位力」とからかわれ、弱いことを知っていた。
その勝利は「ふーん」だった。
また次の日も野球を見た。またカープが勝っていた。また次の日も。とうとうカープは三連勝してしまった。カープが「あの球団」を打ち負かした。我が家に脈々と受け継がれるある球団アンチの血脈が滾った。
どの球団が嫌いかは言わないが、うちの家族はオレンジ色を見ると途端に不機嫌になってしまう特殊な体質の持ち主である。何にもする気力が起きなかった私は、重い体を引きずって選手を調べた。
菊池涼介選手、エルドレッド選手(当時)のことが好きになった。エルドレッド元選手については、我が家の全員が今も大ファンだ。先の引退報道はとても悲しかったが、なんとか受け入れて前に進もうとしている。
そう、彼の引退は、広島から遠く離れた茨城の一家庭でも、「なんとか受け入れないといけないレベル」の事態だったのだ。エルドレッド選手はそれほどに偉大だった。
だけど、私には一番好きだった選手がいた。
特に打つわけでもない、とても足が速い訳でもない、守備も菊池みたいに派手じゃない。最初は好きだと認めていなかったが、年末にべろべろに酔っぱらって友達に電話をし、「あの人のこと、好きだ」と謎の告白をした。
きっと、恋に近い感情だった。父性への憧れにもよく似ていた。
それが、梵英心選手だ。こう書いて「そよぎえいしん」と読む。
私は野球と彼に夢中になった。
球場に行くと内野席を取り、守備中は双眼鏡で彼の背中をずっと眺めていた。野球選手としては小柄だったと思う。だけど、彼の背中は大きかった。チームではベテラン。「弱いチーム」と呼ばれた広島カープを高みへと必死にけん引する、自信と傲慢さ、どこか哀しさを思わせる男らしさに溢れた世界で一番美しい背中だった。
その背中を眺めている間、作家としての私は無敵だった。雨のように言葉が降ってきた。何でも書ける気がした。物語で沢山の人を元気づけられると思った。
「野球、見てないじゃん」で終わる話だ。確かに球場に行くと野球どころではなかった。
じっと機を待つ背中ばかり追いかけていた。梵選手が昔はとても期待された若手だったと実感できぬまま。特別球場に足を運んだわけじゃない。でも、彼の背中には強い強い思い入れがあった。
だが、梵選手は時代の波に押し流された。
2015年、同じ遊撃手である田中広輔選手の入団により、その座を追われて三塁手となり、秋には二軍落ちをしてしまう。
私は球団を恨んだ。田中選手を恨んだ。
本当は逃れようのない運命だったのだが、受け入れるには余りに思い入れが強すぎた。野球をしっかり見ていなかったくせにちゃんちゃらおかしいかもしれないが、あの大きな背中を見れないことが余りに悲しかった。
2016年、8月28日。私は知り合いの作家の案内で名古屋に来ていた。本当は野球を見るつもりはなくなんとなく過ごすつもりでいた。
しかし、その知らせを知り私は震えた。
梵選手が一軍に上がる。
友人たちに謝りながら、ナゴヤドームへ急いだ。泣きそうだった。全てが奇跡で満ちていた。神様に感謝してもしたりなかった。
野球を正しく楽しんでいないだろう私に、この慈悲は身に余るものだった。
もう、これが最後だと予感していた。なのに、声は出なかった。
「おかえりおかえりそ・よ・ぎ」
応援席は目一杯叫んでいた。私は喉が張り付き、涙を堪えるのに必死だった。
その後、梵選手は優勝した翌日に二軍に落とされた。一本もヒットを打てぬまま。
以来、私は梵選手を避けながら生きてきた。
彼は17年オフに球団を去った。選んだ道は現役続行。現在、時折DAZNで解説をしながら社会人野球で選手兼任コーチをしている。Jスポーツの退団インタビューでは、彼はいつも険しかった顔を緩め、憑きものが落ちたような顔をしていてた。心臓が絞られるかのように苦しくて、目を背けた。
きっと、彼の背中は小さくなってしまった。
9月15日、梵選手のJスポーツでの初解説に、彼と向き合えるかどうか。それが問題だ。
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