【映画レビュー】『流浪の月』~体も、心も、そのすべては持ち主だけのものなのに、そんな当たり前の尊厳が簡単に踏みにじられる世界で、私たちは生きている

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(by 碧月はる

人は、自分の見たいようにしか物事を見ない。事実はひとつだが、どの立ち位置から眺めるかで、受け止め方は大きく変わる。見たいように見て、信じたいものを信じる。本来それでいいのだと思う一方、その裏側で絶望に苛まれる人がいるのなら、それはやはり間違っている、とも思う。

善意と悪意の境目は、どこまでも曖昧だ。善意を表皮に巻きつけてさえいれば、どんな攻撃も許されると思っている人は、案外少なくない。自分から見て「悪」であると認識した相手には、何をしても構わない。その価値観で生きている人は、おそらく自分が「悪」だと認定される未来を想像できないのだろう。

本当に「悪いこと」をしていなくとも、「悪人」に見做されることはある。もしくは、何らかの原因があり、道を踏み外すこともある。自分がその立場に置かれ、四方八方から石つぶてを投げられたとき、はじめて人は知るのだろう。「思い込みの善意」がもたらす容赦ない凶暴性と、真の正義とは対局にある、被り物の正義の姿を。

2020年本屋大賞を受賞した、凪良ゆうによる長編小説『流浪の月』。こちらを原作とした映画が、5月13日に全国公開となった。監督・脚本は、『悪人』『怒り』などの名作を手掛ける李相日。広瀬すずと松坂桃李が圧巻の貫禄で主演を務め、横浜流星と多部未華子が新境地に挑んだ本作は、観る者の心を有無を言わさずスクリーンの中に引きずり込む。

女児誘拐事件の被害者として、「可哀想な子」というレッテルを貼られて生きる家内更紗(広瀬すず)。誘拐犯として、「ロリコン」「変態」と蔑まれ続けてきた佐伯文(松坂桃李)。しかし、世間の認識と二人だけが知る真実には、大きなズレがあった。

15年後、文が働くカフェで、二人は偶然の再会を果たす。それを境に、二人を取り巻く人たちの心にさざ波が立ちはじめ、それは徐々に大波となり、更紗と文を飲み込んでいく。

あらゆる犯罪において、加害者の名前が出ない場合でも、被害者の名前はしっかりと表に出回ることが多い。現代のIT社会において、一度出た情報を完全に削除することは、ほぼ不可能に近い。よって、多くの被害者は、自身の意志とは無関係に、知られたくない過去の被害を第三者に知られてしまう環境に置かれている。映画の中でも、アルバイト先の同僚が更紗の過去をネットで知り、更紗本人に「調べちゃった」と告げるシーンがあった。「怒った?」と尋ねる同僚に、更紗はこともなげにこう答える。

「怒りませんよ。慣れてるので。なんでも、慣れたほうが楽ですよ」

過去を知られること、知った相手が興味本位で詮索してくること、同情や奇異の眼差しを向けられること。これらすべてが、更紗にとっては日常で、彼女はそれに慣れるしかなかった。慣れたほうが楽だ。そう思い、あらゆるものを諦めて生きてきた過去が、私にもある。あの当時の自分が、更紗の力ない笑顔と重なった。どんな痛みも、苦しみも、いつかは慣れてしまう。本当の意味では慣れなくても、慣れたふりをして生きる術をいつの間にか身につけてしまう。連日与えられる痛みに、いちいち大声を上げて怒ったり悲しんだり泣いたりするより、心を麻痺させてやり過ごすほうが、いくらか楽なのだ。そうやって生き延びた人を「強か」だと言う人もいるが、それは違う。それしか、選択肢がなかった。ただそれだけの話だ。

世間は、文に対して「少女を誘拐した変質者」として石を投げ続ける。しかし実際には「帰りたくない」と言ったのは、更紗のほうだった。見知らぬ男性の家に居続けることを自ら望むほど、更紗には「帰りたくない理由」があった。更紗は、夜が怖かった。ドアの開く音が怖かった。そして、その理由を、誰にも言えずにいた。

子どもが「帰りたくない」と言ったからといって、家に連れ帰っていいという道理はない。しかし、小学生の更紗が抱える問題の大きさを正しく理解し、解決に向けて全力で動こうとする大人が、果たしてどれだけいただろう。文の行動を全面的に肯定するのは違うとわかっている。しかし、全面的に否定する気にもなれない。

警察に保護された更紗は、「文は悪くない。何もされていない」と何度も訴えた。でも、その声は呆気なくかき消された。年齢が幼ければ幼いほど、子どもの声は届きにくい。例え事実を述べたとしても、大人側の都合や解釈を持ってすれば、そんなものは簡単に捻じ曲げられる。更紗が「帰りたくない理由」を文以外の誰にも言えなかったのは、そういう世の中の理不尽な仕組みを本能で知っていたからだろう。どうせ届かない。どうせ信じてもらえない。子どもにそう思わせてしまう時点で、私たち大人は役目を果たせていないのだ。私も、夜が怖い子どもだった。ドアの開く音と、床が軋む足音が、怖かった。でも、誰にも言えなかった。ただひとりの、幼馴染を除いては。

警察に引き離される直前、文が更紗に伝えた言葉が、耳について離れない。

「更紗は、更紗だけのものだ。誰にも好きにさせちゃいけない」

体も、心も、そのすべては持ち主だけのものだ。しかし、そんな当たり前の尊厳が簡単に踏みにじられる世界で、私たちは生きている。望まぬ形で体を触られる。心を深く傷つけられる。他人だけではなく、ときには家族や親族にさえ、呆気なく蹂躙される。自分だけのものとして己の心身を守り抜く。たったそれだけのことがこんなにも難しいのは、どうしようもなく悲しいことだ。

私は、私だけのものだ。

ここ数年、私もようやくそう思えるようになってきた。それは、どんなときでも「お前は悪くない」と言い続けてくれた人がいたからだ。過去の古傷も、現在進行系の痛みも、少し気を抜くと自責の感情に飲み込まれそうになる。しかし、そのたびに「そっちじゃない」と引き戻してくれる人が隣にいるから、私はどうにかこの世に留まれている。

どこにでも善意の皮を被った悪人はいて、大抵の人は自身の悪意に無自覚で、気づかぬうちに取り返しのつかないところまで人を追い詰めていたりする。私自身にも、きっと、そういうところがある。感情は不確かで、正しさだけを携えて生きられるほど、人は完全体じゃない。誰しもが、いつだって被害者にも加害者にもなり得る。その境界線は、驚くほど近しいものだ。何かを「守りたい」という大義名分があれば、人は躊躇なく残酷になれる。本当に守りたいのは、相手の心か、自分の心か。それを直視できるほどに強い人ばかりなら、この世界は今よりも、はるかにやさしいだろうに。

本作の登場人物の中で、誰が悪人で誰が善人かを、私は明言できない。誰もが自分を守ろうと必死で、歪ながらも誰かを愛し、その果てで、誰かを深く傷つけていた。切望するものを決して手に入れられず、理想と現実の狭間でもがき苦しむ人々。私には、そう見えた。

再会を果たした更紗と文が歩む道のりは、あまりにも険しく、悲しいものだった。しかし、結末とタイトルが結びついた瞬間、私の心に残ったものは絶望だけではなかった。夜の海に浮かぶ月の道のように、たよりなく揺らめく光が、かすかに脳裏に浮かんだ。それは、「救い」などというわかりやすいものではなかった。ただ、私は、そこに勝手な願いを重ねた。二人の幸せを、安らぎを、平穏を、願った。願わずには、いられなかった。

「流浪」とは、さまようこと、さすらうこと。きっと誰しも、さまよいながら、迷いながら、この世界を生きている。大なり小なり痛みを抱え、理解されない苦しみを飲み込み、伝わらない悲しみを携えて、それでも信じたい何かを信じ、すがりたい何かにすがり、どうにか立って次の一歩を踏み出している。そういう人たちの明日が、少しでもやさしいものであればいいのに、と思う。そして、この作品が、善意の檻に閉じ込められて苦しむ人たちの鍵になることを、ひっそりと祈っている。

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(C)2022「流浪の月」製作委員会
「流浪の月」allcinemaページ

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この記事を書いた人

書くことは呼吸をすること。noteにてエッセイ、小説を執筆中。海と珈琲と二人の息子を愛しています。