【新作映画コラム】『LAMB /ラム』〜剥奪されたアイデンティティの物語〜

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(*本稿には一部、映画のネタバレが含まれます)

真におぞましいのは“人ならざるもの”の存在やその誕生なんかではなく、絶対的強者たちの純真かつ無自覚な傲慢さなのではないか。これが映画『LAMB /ラム』を観たぼくの、率直な感想である。

クリスマスの聖なる夜、咆哮を上げながら猛吹雪を突き進む“それ”は、馬の群れをも蹴散らしながら小さな羊舎に闖入する。ざわめく羊たち、その一頭の雌羊と交尾を終えると、“それ”はすぐに身を翻して姿を消す。

その羊舎は、ある哀しい過去を持つ夫婦の所有するものだ。羊飼いのマリアとイングヴァルは、数年前に愛娘を亡くしている。虚(うろ)を抱えたふたりはある日、羊の出産に立ち会う。そこで「羊ではないなにか」が産まれてくるのを目撃するのだが、その奇怪な生き物をなぜかふたりはほぼ躊躇いなく抱き上げて、自分たちの居室に連れて帰ってしまうのだ。

マリアとイングヴァルは、その「なにか」──羊の頭部と人間の身体を持つ半人半羊の女の子を「アダ」(亡くした愛娘と同じ名前である)と名づけ、自分たちの子として育て始める。

最初こそ不気味に思ったものの、次第にアダのシュールな可愛らしさの虜になっていった。そう、アダは可愛いのだ。純真無垢な真っ黒の瞳、恥ずかしがり屋な性格、人間の子どもとも羊のそれともつかぬ鳴き声、周囲の人間たちの言葉を理解する知性。さながらミヒャエル・ゾーヴァの描くキャラクターのようで、彼女の存在は意外にも鑑賞者の心を鷲掴みにする。

夫婦はアダを、目に入れても痛くないほどに溺愛する。上等なセーターを着せ、花冠をかぶせ、トラクターで牧場周りのドライブに連れ出す。ちょっと奇妙な、でも愛に満ち満ちた家族。一見すればそう受け取れなくもない光景のはずなのに、そこはかとない薄気味悪さを覚えずにいられないのは、それが生贄の上に成り立っているからだろう。

生物学的母である雌羊は、アダをマリアに取り上げられてからというもの、何度も何度も羊舎を脱走して3人の住居に赴く。アダと同じ真っ黒な瞳を怒りと哀しみにうるませ、メエメエと鳴いて「娘を返して」と切実に訴え続ける。

しかしマリアは、そしてイングヴァルは、まるで取り合おうとしない。そればかりか、ある意味純粋と言っていいほどの傲慢さで、母羊の口を封ずるのだ。

「アダは天からの贈り物」と、マリアは神に感謝する。

「俺たちの幸せを壊すな」と、イングヴァルは弟ペートゥルに釘を刺す。

すくすくと成長していくアダは、ときおり鏡を覗き込んでは不思議そうに自らを見つめる。彼女は声帯の形状ゆえ喋れぬものの、言葉は理解できている。すくなくとも同じ年ごろの人間の子どもと同程度には、知能も発達している。

だからこそ彼女は、大きくなるにつれ自らの容貌が“両親”とかけ離れていることに気がついたはずだ。でも言葉を持たぬアダには、それを表明する術がない。その身のうちの不安と孤独は、成長と比例してふくらんでいく。

“両親”によって、自らのルーツを隠蔽されるアダ。人里離れた高地の牧場、隔絶した世界で生育されるアダの心細さを想像すると、底知れぬ恐怖に身震いした。

自らのルーツが不明なまま生きねばならぬ不安は、ぼく自身、よく知っている。ぼくは日本と韓国とロシアのミックスルーツ当事者だが、それを知ったのは成人後だった。戸籍上「在日韓国人」に該当する父は「在日」としてのアイデンティティを強く持っていたために、子であるぼくにもそれを求めた。在日としての民族の誇りを植え付けるため、彼は徹底的に情報を隠蔽し続けた。つまり10代のころ、ぼくはぼく自身がコーカソイドの血を持っていることなど知らなかったのだ。

だからずっとずっと、自分についてのさまざまなことがわからずにいた。モンゴロイドであるはずなのに、己の肌はあまりに白い。「色白」と評される周囲の子たちとどっちが白いかで盛り上がったときのあのざらりとした違和感は、鮮明に脳裏に焼き付いている。彼ら/彼女らとぼくの腕同士をぴたりとくっつけて比較したとき、その肌色は同じ「白」でも、なにかが決定的に異なっていた。

そして周囲の「日本人の子たち」は、たいてい焦げ茶か黒髪のストレートである。しかしぼくの髪は赤みの強い茶色で、癖毛を通り越した縮れ毛だった。

「日本人」も「韓国人」も、同じアジア人であるはずなのに。どうしてぼくの肌も、髪も、ほんの少しずつだけみんなと異なっているのだろう。ちいさなちいさな違和感はアダと同じく成長とともに増殖し、そのたび立っている薄氷に亀裂が入った。

アダは“両親”とまったく異なる自分の姿を、“両親”と同じように言葉を操れない自分の声帯を、どう思っていたのだろうか。わずかな違和感を察知するたび、ひび割れていく足場をどう感じていたのだろうか。

この映画を素直に受け取るのならば、喪失と救済、罪と罰、自然破壊。こんなところだろうか。羊から生まれた“人ならざるもの”=「天からのギフト」をマリアが我が子にする流れは、聖母マリアの受胎告知になぞらえることもできよう。

しかしぼくの目には、「個」のアイデンティティの剥奪の物語に映った。子にとっての親、羊にとっての羊飼い。絶対的弱者と、絶対的強者。自分たちの虚を埋めるため、躊躇いなく迷いなくアダを母羊から奪取し、アダの出生の秘密を隠蔽するマリアとイングヴァル。

禁断は、“人ならざるもの”の存在などではない。ラストでぼくが息を呑んだのは、アダの真っ黒なふたつの瞳の、どこまでもピュアな輝きだった。それは解放とアイデンティティの発見からの、安堵によるものだろうか。

どうかそうであってほしいと、愛らしいアダを想う。

++++
(c)2021 GO TO SHEEP, BLACK SPARK FILM &TV, MADANTS, FILM I VAST, CHIMNEY, RABBIT HOLE ALICJA GRAWON-JAKSIK, HELGI JOHANNSSON
『LAMB/ラム』allcinemaページ

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この記事を書いた人

エッセイスト。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。古着とヘッセが好き。
映画/小説/漫画/BL