【エッセイ】「何かに夢中になる人」の成功を喜べない

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三杯目のアイスカフェラテを注文するのを躊躇した。目の前には、やけにハツラツと注文をとる学生アルバイトが立っている。おあずけを食らっても次の餌が貰えると信じてやまない犬のような無邪気さで「お伺いします」と言うもんだから、私は何かを諦めて「これ、もう一杯ください」と言った。

化粧品のカタログを指し示して流暢に語るその人は、つい先ほどまで私のことを肌が綺麗だと褒めてくれたはずだった。けれど何だ、皮膚のターンオーバーのサイクルは年齢を重ねるうちにスピード感が失われていき、ずさんなケアをしていると崩れるのも早いという話らしかった。

アイスカフェラテの一杯目までは良かった。高校卒業後のお互いの話、恋愛から就職、仕事の内容まで近況報告に花を咲かせる時間だった。

ところで……と脈絡なく出てきた肌や化粧品の話題に、私は今日ここに呼び出された本題を察知した。エステ、紹介、友達割引…と準備していたであろう言葉が出てくるにつれ「ははーんなるほどね」と膝を打ち、躊躇なく二杯目のカフェラテを頼んだ。この手の勧誘ならば今日は彼女の奢りだろうと踏んだのだ。

「自分が綺麗になったら、それを大事な人に勧めてみんなで綺麗になろうって、そう考えるのは自然なことじゃない?」

うーん、うんうん、そうかなあ、まあなあ。昔から同意にもそれ以外にも取れる曖昧な相づちが得意だった。そしてそれがいつも自分の首を絞めた。

正直に言うと「みんなで綺麗になろう」なんて思想は全く持たない人間だ。自分だけ綺麗、の方がよっぽどいい。よっぽど得。

けれどそうは言わせない微妙な圧が、たいして仲良くもない私達の間に微妙に漂っていて居心地が悪かった。まるで空間がはっきり区切られてるみたいだ。向かい合って座る私達の、ここまでは私の空気、ここからは私の空気、と決められた領域があるかのように。

すると徐々に、たった2杯のアイスカフェラテ代が浮くぐらいでこの時間を継続させるのは割に合わない気がしてきた。

「みんなで綺麗に」を求める人と求めない人の利害関係が、一時間足らずの再会で軽率に生まれていいはずがない。そんな焦りが現れたのかアイスカフェラテは一杯目よりも減りが早くて、私はほとんど氷水のようなグラスの底の薄い甘みを音を立てて啜っていた。

「心酔」してみたい。そう思うこともあった。何かに心酔している人が周りに多かったから。
心酔している人の高揚した口調は、異国情緒漂う陽気な歌みたいな不思議な懐かしさがあった。

「お前を騙してやろう」なんて悪巧みをしている人は自分の周りには一人もいなかった。皆が皆、私の幸福を心から願って勧めてくれるのだ。それなのに私はその鋭利な好意を受け取ることができず、かと言って強く拒むこともできず、ただただカフェラテを啜ってそれを世間話に変換することしかできなかった。

勧誘に含まれる善意に、同じだけの善意で返したかった。私にできる善意のレパートリーが「否定せずに最後まで聴く」しかなかったのは、相手だってとっくに気付いていたはずだ。そしてそんな態度にきっとこう思っていただろう。「否定されるよりはマシだ」と。

なんとなく続けた部活、やめると言えずに飛んだバイト、途中で行かなくなったサークル。
飽きっぽく「辞め癖」のあった私は、やがて心酔できない自分を正当化するために、数えた。事実の数を数えた。

「バレー部のエースだったあの子も高校のスカウトは来なかった」
「サークルを必死でやってもステージ・アーティストになれた者はいない」
「バイトリーダーだったのに就活は上手くいかなかったらしい」

事実が私を慰めた。誰か一人にでも成功されていたら、とっくに心が折れていたと思う。

けれども三杯のカフェラテ代金をレジで支払った際に——勧誘をのらりくらりと交わしたからか勿論奢ってなどもらえなかった——、ふと考えた。私はもしかして人生の豊かさを感じるタイミングを失っているのではないか?事実に慰められているうちは、私はずっと、自分と真逆である「何かに夢中になる人」の成功を喜べないまま生きていくのではないか?

その疑問は十年以上経った今でも答えが出ていない。

「思い返せば奇妙だったな」と笑ってしまうシーンが人生にいくつかある。

中学の頃、関わりのない同級生からバレエのチケットを貰って観に行ったこと。大学の時、これまたほとんど話したことのない無口で小柄な男の子と2人でチャットモンチーのライブに行ったこと。保育園の園庭で、保育士さんに突然「自分は保育士に向いてないかもしれない」と吐露されたこと。

人に話すと「いや、なんで?どうしてそうなった?」と笑われる、奇妙な記憶。もれなく私自身も「いや、なんで?」と思っている。

そして、卒業後にたった一度だけカフェでお茶をしたあの子との二時間も、とびきりのイビツさで記憶の片隅を陣取っている。化学薬品が使われていない化粧品で肌本来の油分を引き出すと言ったあの子は、コロナ禍で当たり前となったアルコールの塗布をどのように見ているのだろう。

カフェで彼女の差し出した危うさ、高揚、感動は、これからも私の暮らしには無縁なままだ。
何にも心酔しなかった私は、全てのリスクを免れて誰よりも幸せになった、はずだった。

「みんなで綺麗になろうって、そう考えるのは自然なことじゃない?」

標準語が混ざって不自然に上がった語尾とそれに続く曖昧な相づちに、「まあ価値観は人それぞれだよね」と取りなすように言ったのは私だったのか、それとも彼女だったのか。都合の悪い部分は覚えていない。いつもちょうどよく思い出せない。

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画像:_natsu_さんによる写真ACからの写真

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