【ぼくが映画に潜るとき】第6回:『ヴィオレッタ』〜母の「愛してる」からの逃亡〜

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(by チカゼ

ものすごく幼いころ、ぼくはけっこう可愛い顔をしていた。目尻のきゅっと上がったぱっちりとした二重に、ふさふさの長いまつ毛。薄いくちびる、白い肌。くるくるの赤い巻き毛。ぼくは本家筋では実に40年ぶりに誕生した「女の子」であり、ぼくの代ではぼく以外全員男子だったから、親族じゅうに蝶よ花よともてはやされた──ただしこれは、幼稚園に上がるくらいまで。

母は、美しい人だった。望まぬ結婚の末に誕生した娘が「お人形のようね」と褒めそやされるたび、その自尊心は満ちていったのだと思う。誇らしげなあの顔が、幼い日のぼくはだいすきだった。しかし、ぼくの顔立ちはどちらかといえば父似で、幼児を抜けるころにはその特徴は顕著になっていった。

しゅっとしていた顎のラインは、行き過ぎてエラが張った四角い輪郭に。ぱっちり二重はなぜか狭まり(これは成人してから発覚することなんだけど、まぶたの裏の筋肉と軟骨の剥離によるものだった)、見る影もない奥二重に。くるくるの巻き毛は、ちりちりの癖毛へと変貌を遂げた。

「私は垂れ目なのに、あんたは釣り目やなあ」と、母がため息をつくようになったのはそのころからだったろうか。可愛ければ、似ておらずともまだ赦せた。しかしわずか3年ほどで、娘の顔立ちは崩れてしまった。顔立ちだけではない、物心がつき始めると服装の好みまで己とは真逆に育っていった。自分の勧めるフリルのたっぷりついたスカートやワンピースなんかを頑なに拒絶するぼくに、さぞかし母は幻滅したことだろう。

自分の胎から生まれてきた、“同性”の生命体。ただそれだけなのに、なぜ母という生き物は、「娘」を自分と切り離せない分身のように感じてしまうのだろうか。むしろ分身でなくなっていくことのほうが、異常に思えてしまうのだろうか。自分とは似ても似つかぬ姿と思想を持つようになっていく「娘」には、どんな母もおそれをなすものなのだろうか。

ヴィオレッタの母もまた、「娘」を執拗に分身として扱った。2011年に公開された映画『ヴィオレッタ』は、監督・脚本を務めたエヴァ・イオネスコの実体験が基になっている。70年代のフランス・パリ、ヴィオレッタと曽祖母2人暮らしの家は、墓のすぐそばに建っている。写真家の母アンナは、この家にほとんど寄り付こうとしない。

小学生のヴィオレッタは、幼い子どもらしく母の不在を寂しがる。誰よりも母の愛に飢えていたからこそ、母の「愛してる」にとことん弱い。それをわかっているのかいないのか、とにかくアンナはことあるごとに「愛してる」とヴィオレッタに甘く囁く。

あるとき自分の娘が持つ「特別な美しさ」に気がついたアンナは、ヴィオレッタを被写体にした退廃的かつ扇情的な作品づくりにのめり込み始める。それは回を追うごとに、そして自身への写真家としての評価が高まるほどに、過激なものへとエスカレートしていく。

下着姿から、ついにはヌードへ。戸惑いながらも、ヴィオレッタはその要求に応じていく。

「もっと脚を広げてよ」

およそ母親が愛娘に求めるとは思えぬポーズを、平然と口にするアンナ。

「ヘアがないから子どもだってバレる」

いったんは抵抗を示すヴィオレッタに、しかしながらアンナは取り合おうともしない。

「それがいいのよ、衝撃的でしょ? 毒のある花みたい」

“これはポルノなんかじゃない、芸術なのだ。私の撮っているものは、文学的エロティシズムなのだ。”

そんな母のスタンスを、いつしかヴィオレッタ自身も内面化していく。

「君の写真からは“死”を感じる」。母へのそんな評価にも、ヴィオレッタはこう返す。

「違う、死は娼婦」

やがてヴィオレッタはカメラの前だけでなく、普段の生活でも派手な化粧と露出の多い服装で過ごすようになる。同級生にヌード写真を揶揄われれば、「あれは芸術なの」と突っぱねる。母のギャラリーで「艶かしさ」の意味を問われれば、まるで娼婦のように記者へしなだれかかる。

ヴィオレッタにとって撮影は、母からの賛辞をシャワーのように浴びることのできる瞬間だ。そしてなにより、母のモデルでいる限り、母と一緒に過ごせる時間が確約されている。そんな状況下で母の求めに応じない子どもなど、いったいこの世のどこに存在し得よう?

しかし次第にヴィオレッタが母の愛を疑うようになっていき、母娘の関係は徐々にほころびを見せ始める。

ある日シド・ヴィシャスから依頼を受けたアンナは、ヴィオレッタを連れてロンドンへ行く。最初は撮影も順調に進んでいくが、シドと体を絡めることや、ヌードを要求され、ヴィオレッタはそれまで募らせていた不満と反発を爆発させる。

「嫌いよ、もうママじゃない」

娘が自分の意向を退けることに、アンナは過剰に動揺する。イブ・サン・ローランのドレスを与えたり、別のモデルを撮影して当て擦ったり、あの手この手でヴィオレッタの気を引き、操作しようともがくのだ。でもアンナは、ヴィオレッタの本質を理解しない。

「自分を表現するには、強い気持ちで進まなきゃ。やっかみに負けちゃダメ」

アンナはヴィオレッタの激しい反抗を、同級生からのからかいによるものだとしか捉えていない。「表現の自由」の名の下、自らの名声のために己の身体を利用している母をヴィオレッタは憎悪するようになる。それでもなお、アンナはヴィオレッタを「愛している」とのたまい続ける。

「死にたい」と訴える娘の肩口に顔を埋め、「それならあんたと一緒に私も死ぬ」と言い切るアンナにとって、自分の“芸術”を突如受け入れなくなった娘の方が「狂った」と思い込むのは、いわば当然の流れなのだ。娘に対する性的虐待を疑われ、親権を剥奪されそうになってもなお、凡庸な世間が追いついていないと嘆くのだ。

“いつか私の考えが正しいと、娘もわかってくれるはず。今は思春期に入って、ちょっぴり恥ずかしくなってしまったのね。でも大丈夫。そんな期間も過ぎ去れば、魅力を発掘した母である私に、あの子はきっと感謝する。”

ぼくの母も、そうだったのだろうか。「女の子らしさ」や「可愛らしさ」を求め続けた母も、フリルのたっぷりついた洋服を当てがってさえいれば、いつか娘が自分の間違いに気づくと思い込んでいたのだろうか。「あんたのためや」「愛してる」と、母もよく口にした。実家を出て3年以上経つ今も、まるで口にしないと死んでしまうかのように、呪いみたいに繰り返す。「女の子」でないことをカミングアウトしてもなお、それでも「愛してる」と送られてくるメッセージは、画面の中でぷつりと切れたままぶら下がっている。

結局はぼくの母もアンナも、娘から見放されてしまう。ぼくは改名をし、乳房切除をし、母の望む「女の子」から懸け離れた姿になった。そしてヴィオレッタも、非行の末に施設へ収容される。

「愛してる」と言い続けてさえいれば、いつか娘は自分の胎内に還ってくる。そんな馬鹿げた幻想を、ぼくの母もアンナも、最後まで捨て切れなかった。母を理解しない娘にそれでも「愛してる」と伝え続ける慈悲深く気高い自分自身こそを真に愛しているのだと、とっくのとうに見抜かれてることすら気付けやしない。

施設へ面会に来た母親から、ヴィオレッタは逃走する。呪いを振り切るために。母の分身に戻らぬために。

母の身体に吸収し直されることは、個でなくなることと同義で、それはすなわち死だ。死臭に足を絡め取られるわけにはいかない。温かくてやわらかな母の胎へ帰りたいその甘い願望にずるずると引きずられぬよう、ぼくもヴィオレッタも、全力で母の「愛してる」から逃亡するのだ。

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(C)Les Productions Bagheera, France 2 Cinema, Love Streams agnes b.
映画『ヴィオレッタ』allcinema紹介ページ

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この記事を書いた人

伊藤チタのアバター 伊藤チタ “ヤケド注意”のライター

エッセイスト。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。古着とヘッセが好き。
映画/小説/漫画/BL