【エッセイ】センチメンタル・シンガポール・パンツ

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シンガポールの街並みに並ぶ屋台を覗き込み、あれでもないこれでもないとフラフラ歩いたあの夜を思い出す。

あの夜、夕飯はどこにしようかと選んでいた私たちは、選んでいたというより迷っていたという方が正しかったかもしれない。なぜならそこで見る看板には異国の言葉が踊り、どんな料理か判断する手がかりがほとんど無かったのだから。

学生が数人と引率の教授が2人。大学の国際協力プログラムでインドネシアを訪ねる際に、シンガポールを経由した。シンガポールの夏は蒸し暑く、長く歩いていられなかった。
私たちはとあるお店を選び、野外に置かれた大きな円卓を囲んだ。

「何もかもが面白い」。そんな謎の時間を経験したことがある人は多いのではないだろうか。あの夜はまさにそんな時間だった。女性教授が切り出した話題によって、そのボーナスタイムが幕を開けた。

「昔、かわいい女の子がスカートめくりをされているのを見て」。教授は続ける。「私はイタズラをした男の子に腹が立って、すべり台のてっぺんにのぼって自分のスカートを両手でめくりあげ『そんな意地悪をするなら私のパンツを見なさい!』と叫んだのよ」

おおむねそのような話をした。学生たちはどっと笑った。私も笑った。私の隣で親友も笑った。真面目一徹に見えた教授がそんなことを言い出したのが意外で、それもまた面白い雰囲気に拍車をかけた。

教授は次にこんな話をした。

「東京の大学の図書館にいたある時、大きな地震が起きたの。『どひゃあ』と叫んで机の下に隠れ、ぶるぶる震えて、揺れがおさまった時にゆっくり頭を上げると、私以外の誰一人ぴくりとも動いていなかったの。東京の大学生っておかしいわね」

おおむねそのような話をした。お酒の力も手伝ってか、全員が腹を抱えて笑った。今考えても異様だ。今こうして書き起こしながらクスリともしていない。

教授はまたも口を開いた。「壊滅的な運動神経の鈍さをもっていながら、長くテニスをしていたの。一度も試合に出たことがなかった。そして最後の最後、ついに引退試合をいう時に『やっと出られる!』とラケットを振り回して、それなのに試合に出られなかった。その帰り道、山手線のドアに顔をくっつけて誰にも見られないように歯を食いしばって泣いたわよ」

おおむねそのような話を……もはや一番肝心な「なぜ試合に出られなかったのか」のオチの部分を忘れてしまったが、そんな話をした。私たちはもう大爆笑も大爆笑、椅子から転げ落ちそうに体を揺すりながら笑った。眼鏡をかけた生真面目な教授の、山手線でのぐしゃぐしゃの泣き顔がありありと浮かんだ。

蒸し暑い8月のシンガポールに、笑いすぎて呼吸困難になっている日本人の団体。私はあの夜を数年に一度思い出す。そしてそのタイミングが偶然、2021年11月の今日だった。

YouTubeで「シンガポール 屋台」と検索するとそれらしい動画がずらっと表示された。上から順番に覗いては、こんな感じだったか、ちょっと違うような……と首をひねった。

それもそのはず、あの夜は本当に異様な夜だったのだ。頭がおかしくなるくらい全員揃ってハイだったあの景色が、そう簡単に現れるはずがない。

思い立って親友に連絡してみた。共に過ごしたあのシンガポールの夜を覚えているか。屋台の並ぶ通りの蒸し暑さと、個性的な教授の語り口調を思い起こせるか。

唐突な問いへの最高の正解を差し出すように親友は二枚の写真を送ってくれた。

そこには円卓を囲む私たちと先述した教授の姿があった。当時流行っていたのだろう、学生らはこぞって細い眉をしていた。

私はその写真を見て、もうあの夜を懸命に思い出そうとするのはやめようと思った。きっと鮮明に蘇れば蘇るほど、二度と帰れない日であることを強く知ってしまう。

思い出を見えない場所へ仕舞うように「画像の保存」をタップして、ふと浮かんだ小さな疑問を親友に投げかけてみた。

「教授がスカートを全開にして立っていたのは、すべり台だったよね?」
「ジャングルジムかプリン山だったような」
「プリン山って何?」

返信を待ちきれずに「プリン山とは」と検索する。表示されたそこには「公園などにある、山の形をした遊具のこと」とあった。

私は少しの間感傷に浸って、はっと我にかえり、「いやいや違う、おまえちゃう」と思った。私の人生にプリン山の登場はなかった。感傷に浸る筋合いはない。今後、大切な思い出とセットで「プリン山」の知識が保存されてしまう。

慌てて首を横に振るも手遅れ、頭の中にはプリン山のてっぺんで自分のスカートをめくりあげるおかっぱ眼鏡の少女が焼き付いた。パンツ全開で叫ぶ少女の姿に、私はこの日初めての思い出し笑いをしていた。

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画像:301さんによる写真ACからの写真

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