【映画エッセイ】『青葉家のテーブル』~大人はもっと、ダサい自分を子どもに見せていい~

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(by 碧月はる

北欧のインテリアが好きだ。シンプルで木肌の温もりが感じられるものや、焼き物のぽってりとした趣。色は白、もしくは青を基調としたものに惹かれる。見た目だけではなく、使い勝手の良さも外せない。そんな私の好みを熟知している友人が、とあるブランドを教えてくれた。

「このお店、はるさん好きだと思うよ」

そう言って彼女が勧めてくれたのが、「北欧、暮らしの道具店」との出会いだった。インスタやTwitterのアカウントでも人気が高く、知っている方も多いと思う。お店の商品一覧を眺めただけで、私はすっかり虜になってしまった。

「北欧、暮らしの道具店」は、雑貨や食器の販売だけでなく、さまざまなコンテンツを配信している。ラジオ、読みもの、YouTubeなど、お店のコンセプトを生かした文章や動画は、ファンの間でも根強い人気だ。中でも特に話題となったオリジナル短編ドラマ『青葉家のテーブル』が、2021年6月に映画化された。こちらの作品は、現在Amazonプライムなどで配信中である。

「この映画に出てくるインテリアを見ているだけで幸せになれるんだけど、それだけじゃないんだよね。創作をする人にとって、刺さるところの多い映画だと思うよ」

そんなことを言われたら、観ないわけにはいかない。仕事がひと段落した深夜、私はいそいそとハーブティーを淹れ、テレビの前にどっかりと腰を下ろした。この日の私は、ひどく消耗していた。自分のキャパシティを超える仕事量を引き受けた結果、2日ほど不眠不休でパソコンと向き合う羽目になったのである。だったらさっさと寝ればいいだろう、なんて、簡単に言わないでほしい。人がすんなり眠れるのは、ほどよく疲れているときなのだ。ピークを越えて一周した疲労感は、おかしな高揚を連れてくる。そんなときは、穏やかな映画と温かい飲み物で心を鎮めるに限る。



タイトルにある「青葉家」には、4人の人々が暮らしている。シングルマザーの春子(西田尚美)と、息子のリク(寄川歌太)、春子の飲み友達である、めいこ(久保陽香)。そして、めいこの彼氏のソラオ(忍成修吾)。ひとつ屋根の下で暮らすには少し変わった家族構成だが、この4人が織り成す空気感がたまらなくいい。そんな青葉家に、かつて春子の親友であった知世(市川実和子)の娘、優子(栗林藍希)が居候するところから物語は始まる。

いざ本編が始まると同時に、私の目は“うっとり”とした。シンプルでありながらセンスの良い雑貨が並ぶ棚、植物を大胆に生けた大ぶりの花器、ガラスのコップにさりげなく飾られたへピリカムとかすみ草。壁面に吊るされたスワッグ。魅力はそれだけではない。テーブルに並ぶ料理が、いちいち美味しそうなのだ。「青葉家へようこそ」と優子を歓迎する春子。手の込んだ料理の数々が、おしゃれなカトラリーとともに食卓を彩る。私も今すぐ、青葉家のテーブルを囲みたい。この作品を観る人は、みな一様に同じ衝動に駆られるはずだ。

結論から言うと、「この映画の魅力はインテリアだけじゃない」という友人の言葉は正しかった。予想以上に奥深い人間模様が、ごく自然な温度感で丁寧に描かれていた。ドラマチックな展開がないからこそ、深く染みる作品がある。『青葉家のテーブル』も、そんな物語だった。

優子の母である知世は、町中華「満福」という食堂を営んでいる。ユニークなライフスタイルが注目を集め、メディアにも出演し、出版した本はすべてベストセラー。優子にとって、そんな母の存在が重圧になっていた。母の付属品のように扱われることを苦痛に感じ、「私は私で何かにならなきゃ」ともがく日々。葛藤の末、昔から好きだった絵に集中しようと画塾に入るも、思うような結果が出せず苦しみ、悩む。しかしながら、画塾で出会った友人たちとの交流を通し、優子は少しずつ成長していく。支え合い、ときにぶつかり、素直に本音で向き合う学生の姿は、面映ゆくなると同時に懐かしい記憶を呼び起こす。

この映画は、親子の確執がひとつのテーマになっている。そのため、鑑賞する年代によって共感する部分が異なる作品であろう。私は今回、母親である知世や春子の心境に自分を重ねた。今より10年前だったなら、逆だったかもしれない。

映画後半、若かりし頃に録音した自作ラジオを、春子と知世が身悶えしながら聞き入るシーンがある。「若気の至り爆発しすぎでしょ」と苦笑する知世に、春子はこう答えた。

「今だって至るしね。至って至って、今の私たちじゃん」

そうなのだ。大人だって至るのだ。私は昨年、40歳を迎えた。言うなれば、人生の折り返し地点である。しかし、未だに至る。「たまに」ではなく、「しょっちゅう」至る。夢を描き、無謀といわれる挑戦をし、その結果失敗したり恥をかいたりするのは、若者だけの特権ではないのだ。子どもの頃は、大人になれば何でもスマートにこなせるものだと思っていた。でも、実際は違う。まったく違う。子どもが思うほど大人は大人じゃないし、大人が思うほど子どもは子どもじゃない。

春子は、知世に内緒で自作ラジオのテープを優子に送りつけた。娘に過去の黒歴史を知られたことに耐えきれず、悲痛な表情でテーブルに突っ伏す知世に、春子はこともなげにこう言ってのけた。

「かっこいいお母さんの、青くてダサいとこは、若者の希望だよ」

大人はもっと、ダサい自分を子どもに見せていいのだと思う。完璧を目指して努力している人を否定したいわけじゃない。ただ、親の「できていない」ところや「若気の至り」的な失敗を知っても、子どもは親を軽蔑なんてしない。むしろ彼らは、それを知り安堵する。私の息子たちにも、そういう傾向がある。私が失敗するたびに、「もう、お母さんはしょうがないなぁ」と笑う。「お母さんでも失敗するんだ」「大人でもうまくできないことがあるんだ」と、そう思えるだけで、やりたいことにチャレンジするハードルがぐっと下がるのだ。

描かれていたのは、親子の確執や友情だけではない。友人の言う通り、「創作をする者にとって刺さるところの多い」作品だった。「創る」者には、大きく分けて4つの壁がある。まず最初に「始める」決意、その次に「創りきる」熱意、そして「公開する」勇気、最後に「続ける」意志だ。これらに行く手を阻まれている人には、ぜひ本作をお勧めしたい。あらゆる場所に散りばめられた台詞の数々が、きっとやさしく背中を押してくれるだろう。

映画のラストに青葉家のテーブルを彩ったのは、卵の黄色が美しい「はぁちゃんライス」だった。知世が営む町中華「満福」の看板メニューであるこちらは、「北欧、暮らしの道具店」にてレシピが公開されている。熱したフライパンに溶き卵を流し込んだ瞬間のジュワッという軽快な音。卵の上にちょこんと乗った自家製ラー油の赤。最初から最後まで生唾を飲みながら画面に釘付けになっていた私は、映画鑑賞後、おもむろに台所に立った。

ゴマ油をひいたフライパンから立ち上る香り。舞い踊る米粒。時刻は深夜3時を回っていたし、現在お腹周りが立派な成長を遂げつつある。でも、もはやそんなことはどうでもいい。前述した通り、大人だって至るのである。いっそのこと「若気の至り」なんて言葉は撤廃して、「人間の至り」に変更してはどうだろうか……なんて、くだらないことを考えながら、夢中で焼き飯を頬張った。

一口噛みしめるごとに、映画の余韻が体内に充満する。身も心もすっかり満たされた私は、明け方ようやくベッドに潜り、翌日昼過ぎまで眠りこけた。目覚めた体は、スッキリと軽かった。お腹だけは心なしか重たいように感じたけれど、そこは都合よく、気のせいだと思うことにする。

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(C)2021 Kurashicom inc.
映画『青葉家のテーブル』公式サイト

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この記事を書いた人

碧月はるのアバター 碧月はる ライター&エッセイスト

書くことは呼吸をすること。noteにてエッセイ、小説を執筆中。海と珈琲と二人の息子を愛しています。