【碧い海に浮かぶ月⑦】「大丈夫じゃない」を言えるようになったから

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(by 碧月はる

梅の芳醇な香りに誘われて見上げた空は、白と青の絵の具を混ぜ合わせたような、薄い水色だった。ねじれた枝の先端でほころぶ蕾たちが、その淡い空色に小さな手を伸ばしている。風は穏やかで、空気はほのかにゆるみ、木々の新芽が膨らんでいる。季節が、一周した。この地にまた、春が巡る。

離婚に伴う転居で現在のアパートに越してから、早くも一年が過ぎた。さまざまなものを失った痛みに呻き、嗚咽しながらどうにか新居にたどり着いたあの頃は、息も絶え絶えだった。そこから少しずつ、木が成長するような速度で、ゆっくりゆっくり傷を癒やした。未だ古傷とはいえず、生乾きの傷も多数ある。それでも、一年という歳月は、人の痛みをそれなりに淡く薄めてくれた。

寒さの残る初春に逃げ込んだ新しい住処は、大地のエネルギーが色濃い土地だった。春夏秋冬、季節にちなんだ草花が咲き乱れ、空は広く、海は碧く、連なる山々から下りてくる風は、透明で清らかだった。魚は市場で、野菜は産直で買い求める日常に幸福を覚えた。陶芸の盛んな地域で自分だけの器を購入したり、広い河川敷で水鳥を眺めながら、本を読んだりした。

折につけ、飽きもせず海を訪れた。海は、毎日くるくると表情を変えた。穏やかな日もあれば、荒れ狂う日もあった。自分の心境と波の顔が重なるたび、私は海から生まれたのだと思った。私の母は、あの人ではなく海なのだ、と。そう思うことで、自分のなかの何かを保っていた。

あまり健やかとはいえない生育環境で育った。それゆえの葛藤や歪みは今も健在で、40歳にしても尚、目に見えない痛みを抱えている。しかし、この地に移り住んでからというもの、内側が変化していくのを日々感じていた。自分で自分を育て直しているような、そんな不思議な心持ちで、この一年を生きた。今まで生きてきた中で、おそらくもっともよく泣いた。幼子のように声を上げて、鼻水を拭いもせずに顔中を汚して、『となりのトトロ』に登場するメイちゃんのように、「わーん、わーん」と泣いた。泣きやんだら少し眠り、起きて食べ物を口にして、文章を書いた。書いて、読んで、書いて、読んで、飽きることなくそれを繰り返し、気がつけば季節は夏を迎えていた。

大丈夫じゃなくても「大丈夫」といえるのが大人だと思っていた。でも、限界まで引き伸ばされた糸は、唐突に切れて垂れ下がる。それに気づいたのは、多くを失ったあとだった。もう、失いたくない。大事なものを諦めたくない。自分という人間を、粗末にしたくない。その感覚が備わった私は、やがて「大丈夫じゃない」と口に出せるようになった。「もう無理だ」「つらい」「寂しい」――世の中で「弱音」といわれる類の言葉を、おそるおそる表に出した。躊躇いながら、最初は小さな声で、でも段々と、はっきり言えるようになった。

そんな頃、ある物語に出会った。貧困、虐待、過重労働。現代社会の大きな課題であるこれらに正面から向き合った作品は、重厚で強烈な余韻を私のなかに残した。そこで見つけたこの一文は、おそらく生涯、私の奥底に残り続けるだろう。

苦しかったら、助けを求めろ。

西加奈子著 『夜が明ける』

太字だったわけでも、ここだけ文字が大きかったわけでもない。でも、くっきりと浮き上がって見えた。当然の権利なはずなのに、多くの人がうまくできない「助けを求める」行為。それを「していいんだよ」というやさしい言い方ではなく、「求めろ」という強い口調で、作者は言い切った。

何冊かの本が散らばる布団のなかで、声に出してみた。

「助けを求めろ」

夜は暗くて、ひとりは寂しくて、涙は自分で拭うしかない。でも、いざとなったら叫んでみよう、「助けて」と声に出してみようと、そう思えた。途端にすんなりと安心してしまって、頬をつたう水滴の生ぬるい温度を感じながら、私はすうすうと眠りに落ちた。その後、徐々に「助けて」と声に出せるようになった。これまでよりも素直に、自分のために言葉を扱えるようになった。引っ越しから8ヶ月ほどが経過した、秋の頃だった。

やがて訪れた冬は、公私ともにさまざまな試練が続いた。仕事で大きな壁にぶつかり、己の不甲斐なさに頭を抱える夜もあった。離れて暮らす子どもたちとの関係に悩んだり、持病が一時的に悪化したり、大きな決断を迫られては決めきれずに喘いだりした。またなのか、もう勘弁してくれよ。そう思ってはうなだれ、気が済んだら這い上がり、最終的には一つひとつ、時間をかけて乗り越えた。「助けて」が言えるようになったら、これまでよりも踏ん張りが効くことに気づいて、驚いた。

もうすぐ、新たな春がくる。そんな折、とある友人が手土産を携え、我が家を訪れた。

「今年こそ一眼レフに挑戦したい」と相談した私に、「使っていないカメラあるから、譲るよ」と言ってくれたのがきっかけだった。友人の好意に素直に甘え、私は念願の一眼レフカメラを手にした。使い方を丁寧に教えてもらい、試し撮りも兼ねて近隣のお店や海を散策した。その道中でお参りした神社の境内に、梅の木があった。5分咲きの白い花びらに、慣れないカメラを向ける。背後に友人の温かな視線を感じながら、私はシャッターを切った。

カシャッ。乾いた音が、空に響く。風景の一部を切り取った瞬間、心に文章が浮かんだ。書きたい瞬間の色と匂いが、脳内に満ちていく。それを逃さないよう、素早くスマホにメモを残した。写真だから残せるもの、文章だから残せるもの、その両方に向き合いたいとずっと思っていた。そのための一歩を踏み出せた春、私の心は友人への感謝と、これからの希望に満ちている。

ここからまた、季節が巡る。生きている限り、何度でも、何度でも。来年の春、私がどうしているのか、今は知る由もない。でも、なんとなく大丈夫な気がしている。「大丈夫じゃない」と言えるようになった私は、きっともう大丈夫。見上げた空があまりにもきれいで、梅の花が笑っていて、遠くで波の音がしたから、能天気に疑いようもなく、そう思った。

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画像提供 by 碧月はる

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この記事を書いた人

碧月はるのアバター 碧月はる ライター&エッセイスト

書くことは呼吸をすること。noteにてエッセイ、小説を執筆中。海と珈琲と二人の息子を愛しています。