(by 蛙田アメコ)
モノは、いたるところに溢れている。
テキスト、音声、あるいは言葉もなく語るもの。
ライトノベル作家がハマっている物語コンテンツについて綴ります。
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最近、翻訳がアツい。
物語をくるむヴェールである、翻訳されたテキストやセリフや音声に目を向けることが多くなった。あれって、すごいのだ。ほんとに、すごいのだ。
翻訳、字幕、吹き替え。
近頃、吹き替えでのキャリアに優れた声優・加瀬康之さんにドハマりしていることもあって、「他の言語で語られた物語を、別の言語で語りなおす」という物事に思いを馳せることがある。
バベルの塔での悲しい事件からもう何年経ったのか。
そう、あのバベルの塔。言わずと知れた、聖書に記された物語だ。
人間が傲慢にも天にも届くほどすげー高いタワーを建てようとしたことにお怒りになった神様のお気持ちによって、世界の人間が操る言語はバラバラにされてしまった。散り散り、バラバラである。世界中の人間が無数の言語を話していて、意思疎通ができないことは神から下された罰なのだという物語だ。
現在、世界には1万近い言語があるそうだ。
当たり前のことだが、不便だ。めちゃくちゃ困る。だからこそ、未来の世界の猫型ロボットが翻訳コンニャクをポケットに忍ばせているのだろうけれど。(もちろん、少数言語が消滅してゆく現状は憂うべきものである)
『さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう』
創世記の11章。バベルの塔の物語。
まだティーンだった私は、教会でこの聖句を目にしたときに、「創世記の冒頭が『ことばは神であった』なの、もしかして……伏線回収ってやつ……!?」と震えたものだ……なんて、冗談はさておき、本当に世界には様々な言語がある。
同じ言語を使用しているはずなのに、まったく話の通じない人だっているのに、言語が違う。もうめちゃくちゃだ。
意思疎通のためにはお互いに「ガイコクゴ」を学ばなくてはならない。外国のコンテンツを楽しめるのは、ひとえに「ガイコクゴ」を学び、日本語に長け、たくみに言語を翻してくれる翻訳者や、吹き替え声優たちのおかげだ。当サイトの編集長は英日翻訳を生業にしていらっしゃる翻訳者で、何の気なしに遊んでいたアプリが彼の手によって日本語に翻訳され、ローカライズされていたことを知ったときには大変驚いた。編集長ののおかげで2ヶ月ほど通勤時間が楽しいゲームの時間になった。
でも、翻訳という技術は日の目があたらないことが多い。
自分が楽しんでいるゲームですら、誰が翻訳をしてくれたものなのか気にも留めていなかった。何度も観た映画の日本語吹き替えを、誰が演じてくれているのかも知らなかった。
小説や漫画などのコンテンツの愛好家は、「誰の作品か」に対してたびたび言及する。けれど、誰が翻訳したものかに光が当たることは少ないように思う。それこそ、他分野で著名な人物が手がけた翻訳であるという話題性がなければ、おそらくは翻訳に携わる人々の紡ぐ物語について考えることは少ないのではないか。映画字幕や吹き替えを演じた役者さんは、エンドクレジットのなかでもエンドもエンドっていう最後のほうにクレジットされることがあるけれど、それ以外のコンテンツはとりわけ「翻訳」について、透明なものとして扱っているように思う。
縁の下の力持ち。
そう言ってしまえば、聞こえはいい。
けれど、たとえば「元言語で紡がれた文章を、日本語で紡ぎ直す」「既に俳優が演技をした上に、自分の声で演技をしなおす」そこには、様々な技術、スタンス、哲学、そうして日々の研鑽……そういったものがあるはずなのだ。
たとえば、翻訳者や吹き替え担当の「味」が前面に出ていなければ意味がないと考える人もいるだろうし、できるだけ無色透明な存在として裏方に徹することに美学を見いだす人もいるだろう。
翻訳者によって、選ぶ言葉が違う。
吹き替え声優によって演技の方向性が違う。
だって、翻訳というのは間違いなく、誰かが紡いでくれた物語だから。
そんな当たり前のことを今まで気がつかずにいたことに、たいそう驚いた。
翻訳という物語の存在を思いながら、本屋を歩き、動画配信サイトで外国映画をザッピングし、あるいは海外のゲームをプレイする。何を思いながら、どんな人が、この物語を紡ぎなおして私の手に届けてくれたのかを考えながら。
物語るモノたちは、そこかしこに存在している。