【映画エッセイ】『猿楽町で会いましょう』〜若さの本当の価値と取り戻したいもの〜

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「若さ」を恥ずかしいと思うたちだった。なぜか。この国は、若いこと、幼いことに価値があるとされているからだ。とりわけ女性は。

若い女性の肌や髪が画一的な「美しさ」とされ、販売促進に当然に使われることを気味が悪いと思った。まるで年を重ねるのは悪そのもののようであった。

以前、男友達に頼まれ事をされたことがあった。彼は男ばかりの会社で出会いがない、恋愛だ結婚だなんて先走るつもりはなく女性と楽しく話せるだけでいい、と語っていた。

それなのにいざ話を進めると「若くなくてもいいから若いノリの子でお願い」と軽く言われた瞬間、返信をやめた。「女性と話せるだけでいい」という言葉を、そのままの意味で受け取った自分を恥じた。そんなわけがあるか。そんな世の中なわけがあるか。

だから私は若さが嫌いだった。若さに価値をもたせる世の中が大嫌いだった。

映画「猿楽町で会いましょう」には、その若さや幼さが存分に詰まっている。
にも関わらず、キラキラした青春映画とは一線を画しているから面白い。ここで描かれる若さとは冒頭で述べた容姿の価値観とは違い、あまりにも脆いものである。

主人公の小山田修司は駆け出しのフォトグラファー。といっても編集者にアポをすっぽかされたり、「これだから平成生まれは……」と呆れられたりと、存在を軽んじられている。

ヒロインの田中ユカもまた、女優を目指して新潟から上京してきた夢見る若者だ。ただし読者モデルといえど大した仕事はなく、バイトをしながらSNSを更新するだけの日々である。

小山田はユカに恋心を抱き、2人は自然と惹かれあっていく……のかと思いきや、ユカの言葉は多くの偽りが隠されていた。

小山田は純粋で真っすぐな男だ。だからこそ場当たり的な場面が多い。せっかく舞い込んできた仕事より性衝動を優先してしまう。相手の裏切りに気づいた際は、怒りのままに相手を罵ってしまう。
そして仕事も、軌道に乗れば乗るほど、こなれてしまった自分に心が追いついていかない。

ユカは自己中心的ながら流されやすい。上手く世渡りしていると思い込んでいるようだが、実際はもっと強かな人間に上手く使われている。
他人の受け売りをさも自分の言葉のように語ったり、好みじゃない異性には適当な態度をとったり、すぐにバレるような嘘をついたりと未熟な行動も目立つ。

2人は夢を叶えようとして、その夢のために自分を傷つけている。それなのに、本人らは恥ずかしくなるほど大真面目だ。

映画を通して、私は妙に納得していた。若さにはやはり価値があるのかもしれない。彼らには多くの大人がそうするような「回避」がない。言い争うこと、ぶつかり合うこと、相手の生活を振り回すこと。それらを回避せずオールダメージで真正面から傷ついている。良くない選択も心の思うままに行うその姿は、危なっかしくて目が離せない。
彼らにとって、感情は昇華ではなく排泄なのだ。

若さの本当の価値とは、艶やかな肌や髪などの容姿ではなく、この感情の排泄なのかもしれない。
自分の欲望に正直で、人や自分を傷つけることすら厭わない日常は、思えば確かに年々姿を見なくなっていくものなのだ。

若さについて語る時、私達は身を守るために自分を卑下し、同時に人を傷つける。
ミニスカートは10代までだとかカラーコンタクトは20代までだとか誰が定めたわけでもない基準を擦り合わせては、自分は零れていないか恐れながら、そこから弾かれた他者との間に黙って線を引いている。

こんな癖がついてしまった私にはもう、純粋に、無防備に、感情と行動を最短距離で繋ぐことができないのだろうか。夜のネオンの中、小山田が道路の真ん中を自転車で駆け抜けていったように。

たしかに若さは武器だった。けれども今私が忘れ物を取りに行くように時を戻せても、あの頃の黒い髪や素肌なんて要らないし、制服に価値なんて持たせない。在りし日の私が持つ若さを、大人には断じて搾取させない。「若くて幼いから美しい」という暴力は滅びるべきだ。

その代わり、感情を排泄していた日々をもう一度取り戻したい、とは思う。小山田やユカが見せた自分本位のどうしようもない表情から、身に覚えのある痛みが蘇った。「猿楽町で会いましょう」は、顕在的とは違った若さの価値をありありと見せてくれた作品だった。

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(C)2019 オフィスクレッシェンド
『猿楽町で会いましょう』映画.comページ

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