【ぼくが映画に潜るとき】第3回:『リリーのすべて』〜“女の子”でなくなっていくぼくを、夫はどんな気持ちで見つめていたのだろう〜

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(by チカゼ

姿見の前で背広を脱ぎ捨てネクタイを外したアイナーは、内腿にペニスを挟み込んで「女性」に擬態する。「リリー」としての自身の裸体を指でなぞり、ひたすらに、食い入るように見つめる。その恍惚を、ぼくはたしかに知っている。己のものとして。

1930年、世界で初めて性別適合手術を受けたトランスジェンダー女性「リリー・エルベ」について習ったのは、修士1年目の1学期。その日のジェンダー論の講義は、先生の「この実話を基にした映画がちょうど今公開されてるから、興味がある人は観に行ってみてね」と言う呼びかけで締められた。ぼくは帰りの埼京線の中で『リリーのすべて』のチケットを予約し、取り憑かれたようにインターネット上に散らばる彼女の情報を読み込んだ。

1920年代、デンマークに暮らす画家の夫婦。お互いのことが手に取るように分かるアイナーとゲルダは、同時にそれなりの問題も抱えている。すでに売れっ子のアイナーとは対照的に、ゲルダは未だ芽が出ないこと。セックスレスではないにも関わらず、なかなか子どもを授かれないこと。ふたりの間に横たわるのは、けれども「それなりの問題」のみに限られていたはずだった。基本的には彼らは互いの魂の片割れで、深く理解し合い、尊敬し合い、なにより確実に愛し合っていた。

「それなりの問題」どころではなくなるのは、ゲルダがアイナーに絵のモデルを頼んだことがきっかけだった、というわけではけっしてない。ゲルダが冗談半分でアイナーに女装させ、舞踏会に連れ出したことによって、アイナーが「女性=リリーになった」わけではないのだ。リリーは、最初からそこにいた。ひっそりとアイナーの内側で、発見されるときを待っていたのだ。「男性」の容れ物の奥底で長いあいだ眠りについていたリリーを、たまたまゲルダが揺り起こしただけだ。それはゲルダにとっては、皮肉なことだったけれど。

ぼくが自分の「少年」を眠りにつかせたのは、19歳の終わりごろだ。生まれたときから「女性」の身体が間違いであることを知っていたが、知っていたとてどうすべきかなど当時のぼくにはわからなかった。「女性」では、確実にない。でもだからといって、「男性」になりたいとも思えない。そんな曖昧で不確かな存在のまま、性別を持たぬ「少年」のままハタチを越え、この先を生き抜く勇気など、とてもじゃないけど持てなかったのだ。

まともな「大人」になるために、まずはまともな「女の子」にならなければ。そう思い込んでいた20代前半は、正真正銘の「女の子」を目指して死に物狂いで努力した。ピンク色のアイシャドウをまぶたに塗り、スカートを履き、シャネルの5番を身に纏った。夫と出会ったのは、そんな時代だった。言ってしまえば、タイミングが悪すぎたのだ。彼は「女の子」を装ったぼくに恋をして、ぼくは「女の子」を貫き通そうとますます躍起になった。

でも、それは土台無理な話だったのだ。「女の子」であろうとすればするほど、かえって「女の子」ではないことをあらゆる場面で突きつけられる。心と体の齟齬を、意識せずにはいられなくなる。

だからたぶん、とつぜん弾けたんだろう。大学の帰りがけ、ある日発作的に原宿駅へ向かった。私服の中高一貫校に通っていたぼくは、10代のころよくキャットストリートの古着屋でメンズ服を調達していた。かつて捨て去った男物の服、カーハートの太いデニムやラルフローレンのコットンニット。古着屋の片隅の試着室でそれらを纏い、姿見の前に立ったとき、心底安堵したのを覚えている。

ああ、これがやっぱり「本来のぼく」なのだ。体の凹凸がわからないダボダボの洋服を着たぼくは、間違いなく「ぼく」だった。「女性」でも「男性」でもない、性別を持たない「少年」のぼく。それは10代ゆえの逃避でも勘違いでもなく、ただそれこそが真の姿だったのだ。20代半ばに差し掛かったあたりで、ようやっと確信を得た。ストッキングを履きワンピースとウィッグを身につけ、ペニスを排除した姿こそが「本来の自分」だと再発見したリリーのように。

結局ぼくは耐えきれなくなり、とうとうある日「女の子」ではないことをべろりと彼に吐き出してしまった。付き合い始めてから、丸2年が経過していたと思う。あらゆる意味で、ずるいタイミングだった。彼の日常にぼくという存在がしっかり根を張り、そう簡単に引っこ抜いてゴミ箱に投げ込むことなどできやしないとわかっていながら、いやわかっていたからこそ、そのタイミングでぶちまけた。

そうして彼を、彼の人生を、激しい混乱の渦に巻き込んでしまった。共に過ごす月日の中で、ピンク色のアイシャドウを捨て、スカートを捨て、シャネルの5番を捨て、ぐんぐん「少年」に還っていくぼくを、transしていくぼくを、彼はどんな気持ちで眺めていたのだろう。

「アイナーを返して」
日常のほとんどをリリーとして生き始めた夫に、ゲルダは泣きながら訴える。
「夫と話したり抱きしめたりしたい」

しかしもはやリリーには、それを叶えることはできない。アイナーがリリーに身体を乗っ取られたのではなく、リリーがアイナーを演じていたに過ぎなかったから。女性であることを自覚したリリーは、男性にはもう、なれない。
「君の望むものを、僕は与えられない。でも、君を愛している」

「女の子の君を返して」と、夫は言いたかっただろう。きっと今も、そう思っている。口にはけっして出さないが、はっきりと肌で感じる。
「あまりにも多くのことが変わりすぎた」と、このことで諍いになるたびに彼は言う。「君が女の子じゃないことは、わかっていたつもりだった。その上で結婚したつもりだったけど、まさか胸を取りたいとか改名したいとか、そこまでとは思っていなくて……」
彼の言葉は、いつもそこで途切れる。

そのたびにぼくは、「女の子じゃないって、あれほど説明したじゃん」「変わったんじゃなくて、最初っから女の子じゃなかったんだよ」と泣きじゃくるのだ。
「女の子としてあなたを好きになったんじゃないんだよ。最初っからぼくはぼくで、ぼくとしてあなたを好きになった。それだけなんだよ」

夫はぼくを愛している。痛いほどに、知っている。そうじゃなきゃ、わけのわからないことを言い出すぼくと結婚なんてしなかったはずだから。いつだってぼくのことを、理解しようと真摯に向き合ってくれるから。でも彼は、もはや「女の子」でなくなったそのままのぼくを、かつてと同じ熱量で、これからも愛し続けてくれるのだろうか。「少年」としてのぼくを、まるごと受け入れてくれる日が来るのだろうか。

ゲルダは、どうだったのだろう。リリーを愛していたのだろうか。
「自分を女だと思います」
ようやく辿り着いた唯一の結論をリリーが医者に告げたとき、ゲルダは迷いなく同調する。「私も、そう思います」と。

ゲルダはアイナーと同じかたちの愛を、リリーに抱くことはできなかった。それでもたしかに、ゲルダはリリーを愛していたのだ。だからこそゲルダだけが、リリーを見つけ出せたのだ。ゲルダが評価されるようになったのは、またしても皮肉なことに、リリーがきっかけだった。リリーの肖像画が売れたことで、ゲルダはパリで個展を開くことができた。この世にただひとりだけ、ゲルダだけがリリーに気付き、姿を与えた。ゲルダがひたとアイナーの本質を見つめ続けていたからこそ、ゲルダだけがリリーの命を吹き返すことができたのだ。

今年の春、ぼくは乳房縮小手術のためにタイへ飛ぶ。リリーがペニスを取り払ったように、ぼくも乳房を取り払う。間違って育ったふたつのできものを取っ払った体こそが本来のぼくなのだと、彼は言い切ってくれるだろうか。愛したままで、いてくれるだろうか。

もしも彼からの愛情を喪ってしまったら、この先どうやって生きていけばいいのか、もうぼくにはわからない。自分よりも1度高い彼のぬくもりなしでどうやって眠りについていたのかさえ、今となってはもう思い出すことすらできない。こんなにも日常に彼の存在が溶け込んでいるのに、切り離されるときがやってきてしまったら。

それでもぼくはもう、いまさら「女の子」として生きていくことなどできない。リリーがアイナーに戻れないように、ぼくももう、引き返せない。ピンク色のアイシャドウも、スカートも、シャネルの5番も、もう身に纏えない。だけど、願うならば。この先も彼と生きていきたい。

ぼくはきっとリリーよりも、ずっと卑怯で臆病で、貪欲だ。ゲルダはアイナーへ向ける愛を、かたちを変えてリリーに注いだけれど。そしてリリーは、別の男性との恋をあらたに望んだけれど。でも夫の愛のかたちは、出会ったときと変わらぬままであってほしい。タイから帰国したあともなおそれが恋のままであってくれたらと、ただこっそり祈っている。

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映画『リリーのすべて』映画.comページ

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この記事を書いた人

エッセイスト。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。古着とヘッセが好き。noteはこちら。映画/小説/漫画/BL