【おなかの中のくらげ③】今はまだ黄色の子

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くらげが産まれ落ちた。それは順を追って丁寧に私に知らされた。眼鏡もコンタクトも外し、身体に麻酔が回っていた私には、ぼんやりと滲む世界の中でただ天井を見てハイ、ハイと答えるほかに出来ることはなかった。

「姿が見えたよ、もうすぐよ」
くらげは間抜けなことにまだ眠っていた。

「お母さん、頭が出たよ」
くらげは気づいた。光に。昨日とは違う今日のことに。

「生まれたよ!おめでとうございます!」

14時27分、と誰かが声に出した。ドラマで登場人物が死ぬ場面と同様に、人が生まれる瞬間も時刻を口に出すのだなあとやけに冷静に考えた。

くらげの声は私の耳には「おぎゃあ」とではなく「に゛ゃー」と届いた。くらげは男の子。私の息子だった。

くらげが産まれ落ちた日の夜。私は昨日まであった胎動が失われてしまったことを感慨深く思いながら物思いに更けていた──と書きたいところだが、現実は全く違った。とんでもない腹部の痛みに襲われ、歯を食いしばりながら真っ暗な病室でひたすら時間が過ぎるのを待っていた。

脂汗が額や首から枕に伝うのが分かった。まだ麻酔の効いていて感覚のない両足と、やたらハイになって眠りにつけない頭が、それぞれ別の人の持ち物のように思えた。

「出産」に「痛み」を伴うように取り決めた神様は、ひどく悪趣味な人なんじゃないだろうか?

くらげが泳いでいた子宮は10か月の役割を終えてぎゅうううっと収縮していく。これは「後陣痛」と呼ばれる痛みで産後2、3日続くらしい。収縮スピードの速い人ほど痛みが強いのだと聞いたことがある。

痛みがおさまった15分ほどで気を失うように眠り、痛みで再びハッと目を覚ます。細切れの睡眠(というより気絶に近いような……)を繰り返して、私は別部屋のくらげを想う気持ちと神様への恨みを胸におさえながら、痛みと戦う長い長い夜を乗り越えたのだった。

翌日、と区切ることもできない夜の延長に朝がやってきた。看護師さんに背中の管を抜かれ体を清拭してもらう。

「お昼から徐々に歩きましょう」

満面の笑みに戦慄した。痛みをこらえてでも体をなるべく動かしたほうが回復も早い……そう頭では理解していても「いやいや無理です」と本能で白旗を挙げていた。

ベットのリクライニング機能で無理に上体を起こし(ただそれだけのことがなんと20分かかる)、腹圧をかけないように時間をかけて体の向きを変える。痛みが襲うたび「うう~」と唸ってはいちいち行動を止め、「何もできない」という不自由さを存分に突きつけられていた。

廊下には同じように手すりに掴まって唸っているお母さんもいた。その横をスタスタ歩くお母さんが戦地から生還した勇者のように見えた。

リハビリに心の折れかけた私を見て、看護師さんが「元気が出るかなと思って赤ちゃんつれてきたよ」と言って病室に来た。「くらげ」と呼んでいたその子は、手も足も爪も小さいながらに「人間」の形をしていた。

看護師さんが出て行って、くらげとふたりきりになった瞬間、急に裸が見たくなっていそいそと服を脱がせた。くらげの身体は「ほそほそ」で(細い人を普段から我が家ではこう呼ぶ)、裸になった瞬間手足をバタバタ!と激しく動かした。かわいい!これだけ大きく手足を動かせるのだ、どうりで胎動が痛くて眠れなかったはずだ。

私は膨らんでいないおなかに自分の頬をつけて、かわいいちゃん、お前はかわいいちゃんだねと呼びかけた。お前は何にもできないんだね。私も今、痛くて何にもできないよ。何にもできない同士だね。これからよろしくね。

くらげは目を閉じたまま、やっぱり大きく手足を動かすのだった。

生後10日目。ハプニングが起きた。退院後最初の検診で、くらげが黄疸の検査で引っかかってしまったのだ。確かに肌や白目が黄色がかっているのは気になっていた。「ごめんね~、数日間こちらで預かります」と医師は言った。

「この子だけまた入院ということですか?」
「そうそう。お母さんも入院するとお金が倍かかるからね。お母さんは来れる範囲でいいから授乳に通って」

黄疸は深刻な症状ではなく、3割の赤ちゃんはなるものなのだと丁寧に説明してくれた。そのことについては特に不安はなかったけれど、ただただ「離れるのが寂しいな」とそんな単純な思いで鼻の奥のツンとするあの感覚を感じていた。

こうして私は「通い妻」ならぬ「通い乳」として、朝は7時から夜は10時まで3時間ごと病院に会いに来ることになった。

くらげは光線療法を受けるため病棟に連れていかれた。これから小さな箱の中、明るい光線を受けながらぐっすりと眠って、皮膚の不要な物質を分解していくらしい。ばいばい、またあとでね。きっときみは何も知らない、何もわかってないのだから、こんなに寂しいのは私だけなのだろうけど。

それから3時間後、再会したくらげは両目を保護用シートを覆われていた。素人には肌の色素変化は分からなかったけど、くらげは大きなあくびをしたり両足を曲げ伸ばししたりして私を笑わせてくれた。のんきなもんだ。名前を呼んでみるとちょっとだけ反応した気がした。視界を遮られている今、聴覚だけで外を知ろうとしているくらげ。愛おしくて何度も名前を呼んだ。また来るよ、3時間経つたびに来るよ。それまでの間は眠っていてね。くらげがまだ何の感情もなくてよかった。さみしいとかかなしいとか、そういう種類のあれやこれやを知らなくて本当によかった。

暗いおなかの中を悠々と泳いでいたくらげ。突然、外の世界に出されたくらげ。そして今度は、数日間たっぷりと光を浴びるくらげ。小さな箱の中、多くの手に守られながら。

ふたたび自宅に連れ帰る日、どんな表情をしているだろう。目元のシートを外すと、さぞかし眩しいだろう。その日を待ち望みながら私にできるのはただ耳元で「待っているよ」と囁くことだけだった。

「みんな待っているよ。早くおうちに帰ろうね」

うんともすんとも言わないくらげが、そう囁く時だけ耳を澄ましているように見えた。両手を胸の前でじっと構えて何かを知ろうとしているように見えた。

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画像:ダークラムさんによる写真ACからの写真

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