(by とら猫

命は重い。

なぜかというと、命は取り替えがきかないからだ。盗まれたものは買い直せばいいし、壊されたものは修理すればいい。けれど命だけは何をもってしても代替できない。命が失われるとはすなわち、存在の消滅である。誰かの存在を決する権限が、人間にあるとは思えない。それは神の領域だ。ゆえに殺人は独りよがりな行為であり、重罪なのだろう。

それでも実際のところ、命がどれくらい重いのか、それを秤で計るように感じられる場面は限られているように思う。たとえば家族や友人やペットを亡くしたり、戦場で誰かを殺めたりしても、その瞬間に、失われた命の重さが全身に伝わってくるわけでもない。

たいていの場合、命の重さというものは、失われた命に由縁のある人々の悲しみや、怒りの大きさを介して、肌感覚として実感させられるのではないか。

『空白』のスーパーの店長、青柳(松坂桃季)もそうだった。いくつかの不幸な偶然が重なり、ひとつの若い命が奪われる事故を引き起こしてしまった青柳は、遺族の父親の激しい怒りに触れることで、失われた命の重さを、自らの罪の重さを思い知らされる。それはもう絶望的なまでに。

発端は、ひとりの娘の万引きだった。劇中、彼女が本当に万引きをしたのか明確な描写はなされないが、そこは瑣末な問題だ。真相がどうあろうと、彼女が万引きに及ぶような素振りを見せ、店長の青柳に見咎められた瞬間、運命は取り返しのつかない結末へ向かって、勢いよく坂道を転がり始めてしまったのだ。

本来ならそれは、娘の停学くらいで終わっていた事件かもしれない。だが、一向に減らない万引き被害に悩まされていた青柳は娘を追いかけ──凄惨なかたちで死なせてしまう。

この瞬間、被害者だったはずの青柳は加害者となり、加害者だったはずの娘は被害者となった。ひとつの失われた命が世界に穴を開け、その周りにある日常が壊れてしまった。

青柳にとっては理不尽であろう。自分は万引き犯を捕まえようとしただけ。その判断に誤りはなかった。寡黙で気弱な青柳が、メディアの力を借りてそういった心境を吐露するシーンがあるが、これは偽らざる本心に違いない。

そして娘の父親である漁師、添田(古田新太)の日常も壊れた。理不尽な恫喝を繰り返すばかりで娘の心に寄り添おうとしなかった添田は、元々罪深い。その罪は、本作における原罪といえよう。添田がもっと良き父親であれば、そもそも娘の万引きは起こらず、青柳も不幸な罪を背負わずに済んだかもしれない。

けれど娘が死んだことで、添田は遺族となった。被害者となった。抑えきれない悲しみと怒りが、傲慢で横暴な添田をいっそう傍若無人な怪物へと変えていく。理にかなわない暴論も当然とばかりに吐き、死んだ娘への罪悪感を振り払うように、スクリーンを震わせるほどの怒声でもって青柳を容赦なく追い込んでいく。

そこから浮かび上がるのは、こういった偶然の死亡事故のような、明確な悪人が存在しない罪がひとたび起きてしまったら、もはや人の手には負えないという身も蓋もない事実である。そこではあらゆる道理も、節義も、意味や価値を失ってしまう。怒れる者はひたすら怒り、悲しむ者はひたすら悲しみ、そうした感情の矛先を向けられた不運な加害者はただただ頭を下げ、謝るしかない。高尚な正論も、周囲の激励も、心の中に渦巻く複雑な思いを余計にひっかき回すだけで、罪悪感の檻からは決して抜け出せない。

だからこそ、『空白』は身につまされる。それは誰にでも起こりうる悲劇だ。万引きを働いた娘も、恫喝を繰り返す添田も、事故を起こしてしまう青柳も、娘をひいてしまうドライバーも、さらにはきれいごとの正義を押しつけるスーパーの店員・草加部や、悲劇をコンテンツとして消費するだけのメディアや大衆も皆、ひょっとすると、昨日や明日の自分であるかもしれない。日常とはいかに壊れやすく、また壊しやすいものであるかを思い知らされる。

突如として単調だが静かな日常から振り落とされた青柳は、理性などまるで役に立たない暗闇の中で苦しみ続けるしかない。それはあまりに希望のない生き方だ。想像するだけで胸が苦しくなり、恐ろしくなる。ひとたび運命の歯車が狂えば、誰しも同じような地獄に呑まれてしまう可能性は、常にどこかに潜んでいるのだから。

それでも『空白』には救いがある。それは本当に頼りない、一筋の光であるけれど、暗闇の中を這うように生きている者にとってはきっと、まばゆく輝く篝火のように見えるに違いない。

居住まいを正して生きなければ。そんな思いを強く抱かせる作品だった。

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(C)2021「空白」製作委員会
映画『空白』公式サイト

 

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