(by 碧月はる)
はじめてこの海を訪れた朝、私は厚手のロングコートとふかふかのストールを身に着け、それでも凌ぎきれぬ寒さにカチカチと歯を鳴らしていた。
新天地での生活は、希望より不安のほうが大きかった。岩肌に勢いよく押し寄せる水面が砕け散る様を眺めながら、祈るような気持ちで目を閉じた。望まぬ形で置いてきた二人の息子の面影が、脳裏にこびりついている。彼らの健康と自身の平穏を海の神さまに祈ったが、返事はなかった。その後、幾度となくこの場所を訪れ、そのたびに同じ願いを胸の内で呟いている。
季節は巡り、初夏。薄手のロングワンピースをまとい、砂浜に降り立つ。ふわりと揺れる裾から入ってくる海風が心地良い。この土地に移り住んで早4ヵ月。枯れ枝に新緑が茂り、砂浜の上にも絨毯のように緑色の蔦が広がっている。ところどころに咲く白い花は、一重咲きのナニワイバラによく似ている。
私にしては珍しく、ここ2週間ほど海から遠ざかっていた。多忙だったと言えばそれまでだが、身体以上に心の余裕がなかった。本来であればそういうときこそ海で過ごす時間を持ち、数々の不要なしがらみをリセットできればいいのだろう。昔から、悲しくなるほど息抜きが下手くそだ。そんな私に、友人がぽつりと呟いた。
「海、行けばいいのに」
言われてようやく、最近あの音と匂いから遠ざかっていたことに気づいた。潮の香り。波の音。ちゃりちゃりと鳴る、浜の石。
「ずっと、行けてなかった」
そう呟いた私に、「ちゃんと深呼吸しなよ」と友人は言った。がちがちに固まっていた私の背中が、その瞬間、少しほぐれた。
文庫本を片手に、車を走らせた。陽射しが強い。紫外線に弱い私の瞳を気遣い、友人がサングラスをプレゼントしてくれたのは先々月のこと。雨降り以外は鼻の上に乗せている茶色のレンズは、正直なところ絶望的に似合っていない。でも私は、このサングラスを見るとしあわせな心地になる。「似合わないね」と腹を抱えて笑いあった思い出があれば、鏡に映る姿がどんなに残念であろうとも笑えるのが人間の不思議なところだ。
出掛けに、お気に入りのノンホールピアスを耳につけた。「鞠花火」と名付けられたその作品は、美しい碧の球体のなかに白い花が咲いている。それはまるで、宵に浮かぶ水上花火。耳元の海と眼前の海。どちらの碧も、等しく美しい。
そっと撫でて存在を確かめる。砂浜で落とし物をして、見つけられた試しがない。大切なものほど無くしがちな私は、これ以上何かを失うのが怖い。無くす前から無くしたときの心配をしている。悪い癖だと知りつつ、それほどに愛しい何かがあるという事実を誇らしくも思う。
引っ越してから今日までの間に、数人の友人とこの海を訪れた。気ままに歩きながら拾い集めた貝殻やシーグラスは、作業デスクの棚にお行儀よく並んでいる。
「見て、きれいじゃない?」
「ほら、こっちにも」
海に来ると童心に戻れるのは、どうしてだろう。アスファルトで裸足になるのは憚られるのに、砂浜なら躊躇いもなく靴を脱ぎ棄てられる。足裏を焼く熱い砂も、時々刺さる小石たちも、そのあとに待っている波の感触を思えば何ということはない。貝を耳に当てても波の音はしないのだと、とうの昔に知っている。それでも大きな美しい貝を見つけると、思わず耳にあてがってしまう。ざざん、と音が鳴る。背後の波の音だと知りながらも、これは貝殻から聞こえてくるのだと夢を見たくなるのだ。
絵本や児童書のなかに広がる想像の世界。自由で、明るくて、際限のない可能性の世界。『もりのかくれんぼう』や『スイミー』、『はらぺこあおむし』に『ぐりとぐら』。“こうだったらいいな”が惜しみなく詰まった世界感を、私たちは年齢を重ねるごとに少しずつ忘れていく。忘れていることにさえ、普段は気がつかない。けれど、海に行くとそれらが一気に溢れる。
自由に夢を見る感覚、信じたいものを科学ではなく想像の力だけで信じ込める強さ。子どもの瞳に宿る力の源は、これであると思う。私たちは子どもに戻ることはできない。けれど、子どもの心を思い出すことはできる。もちろん、毎日毎時間そうできるわけではない。だからこそきっと、海があるのだ。
深く息を吸う。鼻から磯の香りが抜けて、全身に染み渡る。過去、故郷の海をともに眺めた幼馴染がいた。彼の隣で碧い水面を見つめながら他愛のない話をする。その時間が、しあわせだった。黄昏時、ぽっかりと浮かぶ月が海面に映り込んだ。ゆらゆらと揺れる淡い黄色が、碧のなかに溶けていた。
碧い海に浮かぶ月。あの朧げな光を、今でもよく夢に見る。どんなに濃い闇があったとしても、あの光があったからここまで来れた。そういう淡い微かな光を見逃さずにいたい。日常に溶けていく灯火のようなそれを、大切に包んで空箱にしまっておきたい。何かで辛くなったとき、そっと取り出して眺められるように。哀しみで形を変えた自分の原型を、取り戻せるように。私が書き続ける意味の一つが、ここにある。人は得てして辛く悲しいものほど、いつまでも忘れられずに覚えているものだから。
朝陽が海面を照らし出すと同時に、海鳥たちが空を渡る。まるで、神さまの使いのようだ。月は隠れ、お日さまが昇る。真っ青な海辺で、子どもたちが歓声を上げている。やがて陽が落ち夜の帳が下りて、また再び月が昇る。その繰り返しで季節は巡り、私たちの生は自然のサイクルのなかでぐるぐると回り続ける。
久方ぶりに、素足を海に浸す。足裏から良くないものがじわじわと流れ出ていく。同時に、海のエネルギーが体内を走り回る。しばしそうして身体を海と同化させ、足首が冷たさに耐えきれなくなった頃、浜辺に腰を下ろして本を開いた。
悲しいことがあったとき、私はいつも吉本ばななさんの『キッチン』を読む。
「まあね、でも人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの。あたしは、よかったわ」
吉本ばなな著『キッチン』より
“あたしはよかった”と、そう思えないこともたくさんある。けれど、いっぺん絶望しておいてよかったと、死ぬまでにはそう言い切れる自分でありたい。
日が落ち、風が冷たくなった頃、気が済んだように私は腰を上げた。
さあ、帰ろう。
晴れ晴れとした気持ちで本を閉じ、車へと歩き出した。浜の石が訪れたときとは違う音で、「またきてね」と囁いていた。

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画像提供:碧月はる