【ノベルゲーム講座】第2回:文章重視なノベルゲームの文章の書き方2〜サスペンス編〜

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(by 隷蔵庫

前回、私はノベルゲームの文章の書き方・演出面についてコラムを書いた。

しかし、実のところ、私は企業から発売されたノベルゲームをプレイした経験がほぼ無く、ノベルゲームのプレイヤーとして素人であることは素直に申し上げなければならない。そんな奴がノベルゲームの演出に関して講釈を垂れるべきではないと思ったため、私は評価の高いノベルゲーム『CHAOS;HEAD(以下カオへ)』と『スロウ・ダメージ(以下スロダメ)』の2作をプレイして勉強することにした。

これらの作品は、文章をうまく使った演出はさることながら、映像的にも優れており、没入感をうまく演出することに成功している。ゲームのあらすじは割愛するが、いずれもサスペンス色が強い。まだゲームの進行度自体は中盤ではあるものの、気づいたことを2点に絞り、掘り下げてみる。

1. BGMと効果音の使い分け、音と画の対位法

ノベルゲームにおける音響の表現。これは映像表現と同等もしくはそれ以上に拘るべきだと思った。

個人的な話だが、私は大学で映像関係のゼミに所属していたものの、音響を学ぶ機会はごく限られており、映像と音響の関係性について学ぶ機会はほぼなかった。映像表現に対して、音響はサブ的なポジションで捉えられることが多い気がする。トーキー映画が普及するのも、最初のサイレント映画が発明されてからおよそ30年後だったし——映像に関する技術書は数あれど音響はあまりない。しかし、映像にただBGMを流しているだけだと味気ないし、逆に音にこだわると映像も輝きだす。

ノベルゲーム制作においては動的な要素が映画より少なくなるため、より音響効果が際立つのではないだろうか。常にノベルゲームの画面が動き続けることはない。

先に挙げた2作のゲームは音響を効果的に用いている。その上で2作の違いを比較してみる。

まずは、BGMを用いるタイミングの違いがある。カオへは、主人公の脳内が描かれるシーンやヒロイン登場時以外にBGMが流されることはほぼない。BGMが流れること自体、強調すべき場面ということが示される。主人公の妄想シーンなど。

スロダメにおいて、BGMはよりカジュアルに流れる。逆に注目すべきシーンでは、無音+セリフのみになる時がある。そのためキャラクターのセリフが際立つ。これら2作のBGMの使い方は対照的ではあるが、いずれも効果的に作用している。


ちなみに、カオへにおいて、主人公が窮地に陥るとしばしば「星来オルジェル」というキャラに脳内で助けを求める描写が出てくる。ここで流れるBGMやセリフはキラキラとエコーがかかっていて、明らかに窮地に陥っているシーンに相応しくないのだが、それがかえって緊迫感を増している。これは「音と画の対位法」に似ている。

音と画の対位法とは、あえて音と映像を調和させないことで、観客に強烈な印象を残すことを目的とした技法である。アニメ『エヴァンゲリオン』であえて戦闘シーンに『翼をください』を流すのもこの一種らしい。元は黒澤明監督のこだわりから来る技法である。カオへの場合映像と音ではなく、シチュエーションと音&映像のため厳密には異なるものの、緊迫するシーンであえて正反対の要素を入れる点では似ている。

このように、他媒体における音響の技術をノベルゲームの演出に応用するのは可能であるし、BGMや効果音の使い方は、世界観の演出に深く関わっている。

2. 飽きさせない文章と、映像の演出

カオへとスロダメ、2つの作品に明らかに違う点がある。

それは、文章の視点だ。なんとスロダメは三人称なのだ。私の数少ない体験に寄ってしまうが、ノベルゲームは一人称で展開するものが多いように感じられる。ギャルゲーなどはまず一人称で進むだろう。乙女ゲーム、例えば『学園ハンサム』はスロダメと同じくカップリングを扱うゲームであるが、一人称だった。主人公に感情移入させ、擬似的な恋愛を描くことが目的だからだ。なぜスロダメは三人称なのだろうか。主人公と関係を持つ人物の心理描写を、余す所なく書くことができるからだろうか。

とはいえ、心理描写は全体的にあっさりしている。私の推測ではあるが、これはスロダメが映像的演出を重視しているからではないかと思う。これは後述する。

カオへは一人称と三人称を織り交ぜながら構成されている。カオへはスロダメと逆で、一人称でなくてはならない。そうでないと作品が崩壊してしまう。『さよならを教えて』もそうだが、主人公の偏狂的な妄想を描写し、目の前の風景を狭くし、緊迫感を与えるには、一人称は効果的である。プレイヤーは最初、主人公の妄想に対して「そんなわけがない」「早く正気に戻れ」とハラハラしてしまう。しかし、読み進めるうちに、自らが主人公と同化して物語を追ってしまう。これは共感というよりは、思考を乗っ取られているようなものだ。これがスリリングな体験を生む。さらにカオへは鼓動音や椅子に座った時の音、キーボードの打鍵音など、身体により近い音を多用する。これによって、よりプレイヤーが主人公と同化しているような錯覚に囚われる。

では、スロダメはスリリングでないかというと、そうではない。前の項で私は「常にノベルゲームの画面が動き続けることはない」と述べた。しかしこの作品において、それは半分当てはまらない。主人公は他人の感情を目に見えるオーラとして視認できるという設定であり、プレイヤーも主人公の目線を通して、キャラクターの立ち絵の後ろにゆらゆらと常に動く色のついたオーラを見ることができる。

本来ならば立ち絵が表示されると、後ろに揺れているオーラが見える(この動画の顔の横に出ている黄色やピンクのテクスチャが揺れてる感じ)。いい感じに立ち絵がある動画が見つからなかったので、ゲームの雰囲気だけでも……。

主人公の視点で物語を追っているならば一人称であるべきだが、この作品はあえて主人公のキャラクターの確立のために三人称を使い、主人公の心うちをあまり描かない。そもそも感情移入を目的としていないのである。主人公の得体の知れなさを、一人称で書いてしまっては興醒めだ。スロダメは映像やイラストを多用した演出が多く、個々人の心理描写よりは情景や関係性、会話の描写が多い。ドラマを見ている感覚に近い。

この2作に共通する点は、主人公は周りから浮いており、時には異常ととられる行動を見せることがある。しかし、その描写方法は対照的で、プレイヤーを主人公と同化させるか、一歩カメラを引いて異様さを描写するか、主人公の性格によって使い分けている。

サスペンスの演出方法ひとつとっても、感情移入させるか俯瞰的に見せるか、BGMか環境音どちらをメインに流すか、どのように音を使うか、これらを意識するだけでかなり臨場感が増すのではないかと思った。

もちろんこれら2作の面白さはシナリオにある。しかしシナリオを補強してエンタメに昇華するのは演出のなせる技であり、ノベルゲーム特有の面白さでもあると思う。

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©2008 5pb./Nitroplus/RED FLAGSHIP
©Nitroplus

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この記事を書いた人

隷蔵庫のアバター 隷蔵庫 ノベルゲーム作家

小説描きたかったのに、いつの間にかゲーム作者になった人間。代表作『真昼の暗黒』『ベオグラードメトロの子供たち』など。ノベルゲーム制作サークルsummertimeを運営。